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「江夏巨人入り」報道は“ガセネタ”ではなかった…「江夏豊獲得に反対した巨人関係者は誰か?」運命を狂わせた西武トレード、年俸7800万円の決断
posted2025/02/14 11:04

1985年1月19日、多摩市営一本杉球場での「江夏豊たった一人の引退式」。当時36歳の江夏、引退試合を待つ控え室で
text by

細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
BUNGEISHUNJU
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昭和100年の今年は、記念イベントが各所で催され、特集記事も散見されるが、同時に「1985年40周年」でもある。「松田聖子・神田正輝結婚」「豊田商事・永野会長惨殺」「ライブエイド」「日航ジャンボ機墜落事故」「三浦和義逮捕」「夏目雅子死去」「プラザ合意・バブル経済スタート」等々、ありとあらゆる出来事が頻発したいわくつきの年である。
それはスポーツ界にとっても同様で、1985年ほど数多くのトピックで埋め尽くされた年はないかもしれない。そこで、この年に起きた出来事を、この場を借りて可能な限り回想しておきたい。
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今回、採り上げるのが、1985年1月19日に行われた「江夏豊たった一人の引退式」である。新人時代から剛速球で鳴らし、リリーフ(救援)転向後には「江夏の21球」で伝説を創り、セパ5球団を渡り歩いた一匹狼の優勝請負人。そんな不世出の大投手・江夏豊の引退試合が多摩市営一本杉球場という本拠地とは無縁の野球場で行われ、主催は文藝春秋。これは一体どういうことか。
何故、甲子園や後楽園といった所縁の深い球場ではなく郊外の市営球場で行われたのか。阪神タイガースや広島東洋カープといった在籍球団ではなく、出版社の主催で行われることになったのか。そこに至る経緯を全3回で振り返ってみたいと思う。
野村克也と「革命」を起こした
江夏豊は1948年、尼崎市生まれ。大阪学院大高校を経て阪神タイガースに入団。「奪三振日本記録・世界記録(MLB未公認)」「オールスターゲーム9連続奪三振」「史上初延長ノーヒットノーラン」など数々の記録を打ち立て、阪神不動のエースとして活躍するも、75年オフに南海ホークスに移籍、野村克也監督(当時)の勧めもあってリリーフに転向、「先発→救援」という分業制を確立し、文字通り球界に「革命」を起こす。その後は広島→日本ハムファイターズと渡り歩き、それぞれの優勝に貢献していた。
そんな江夏豊の人生の岐路は、当然いくつもあったはずだが、件の引退試合を結尾とすると、1983年秋こそ大きな転機だったと言える。この年のシーズン、江夏豊は日ハムのリリーフエースとして大車輪の活躍を見せていた。