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「大変です、田尾クビです!」楽天・初代編成部長が見た“地獄”「この球団にいたら、いつか死ぬな…」“突然すぎた”野村克也監督就任のウラ側
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byJIJI PRESS
posted2023/12/21 17:22
2005年12月、楽天イーグルスで就任会見をする野村克也監督
「その瞬間に、この球団にいたら体が持たない、いつか死ぬなと思いました。田尾と一蓮托生で、自分から辞めようと決めました。その後、来季のコーチ陣など組閣をあらかた決め、リストを米田に渡したんです。『広野さん、あなたの名前がないけど?』と聞かれたので、そのときに辞意を伝えました。すでに来季の二軍監督(結果的に野村政権ではヘッドコーチに就任)として声をかけていた松本匡史(元巨人コーチ、スカウトなど)には『体だけは鍛えとけよ』と忠告しましたね」
また、同オフにはヤクルトと西武を監督として日本一に導き、ロッテのGMも経験していた広岡達朗のGM就任が検討されていたという。しかし、それもたち消えになった。
「清原和博が巨人を退団するのにともない、楽天も獲得を検討していたようです。GMを打診されていた広岡さんはそれに大反対しました。アメリカ視察中の私にも広岡さんから電話があり、清原について相談されました。私も広岡さんと同じく、今の楽天には必要ないという気持ちを伝えました。しかし、それでオーナーと広岡さんの関係がこじれたんでしょう。アメリカから帰国すると、広岡GMの話はすっかりなくなっていました」
「私は今年で辞める」
このようないざこざに辟易していた広野にとって、先の編成会議の一件は、心が折れるのに十分すぎたのだ。その後、秋季練習の最終日に広野は選手たちに辞任の旨を伝え、こう言葉をかけたという。
「私は今年で辞める。君たちは1年目よく頑張った。あとは君たちで楽天の歴史を作ってくれ」
長年、プロ野球界に身を置いてきた広野にとって、はじめて自ら辞任を切り出したのが楽天だった。こうして広野の新球団の初代編成部長としての仕事は終わったのだ。
広野が基礎作りをした楽天は、その後、野村監督時代に田中将大を獲得。マーティ・ブラウン監督を経て、星野仙一監督時代には、設立9年目にしてついに悲願の日本一に輝いた。広野がかつてオーナーに言った「今は我慢、10年後には優勝する」という言葉通りになったわけだ。
「野球界には運がついて回りますが、楽天は勝ち運がある球団だと思います。野村さん時代に田中将大という大投手を引き当てたのも運です。『マー君、神の子、不思議な子』と野村さんはボヤきながら育て、そして星野仙一というこれまた勝ち運に恵まれた監督が就任。田中将大が24連勝して日本一になったのも勝ち運がついていた。最初は宮城が本拠地となることに現地の野球関係者は、総スカンだったのですが、よくここまで地元に応援されるチームになったものだと感慨深いです」
宮城の“悲しい歴史”
広野がいう「総スカン」のわけは、1974年まで遡る。当時、ロッテオリオンズは特定の本拠地を持たない球団運営を行なっており、後楽園球場、明治神宮球場、川崎球場、そして宮城球場を使用していた。