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「大変です、田尾クビです!」楽天・初代編成部長が見た“地獄”「この球団にいたら、いつか死ぬな…」“突然すぎた”野村克也監督就任のウラ側
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byJIJI PRESS
posted2023/12/21 17:22
2005年12月、楽天イーグルスで就任会見をする野村克也監督
「吐き気と頭痛でなにもできなくなりました。その日は福岡のホテルに泊まり、翌日仙台の救急病院に飛び込んで検査をしてもらいました。しかし、どこにも異常はない。診断としてはストレス過多ということでした。1日入院して点滴を打ってなんとか回復しましたが、やはり当時の環境は相当なストレスだったんですね」
状況を危惧した広野の奥さんも「もう、やめなさい。命落としたらどうするの。楽天に命を売ったわけじゃないでしょう」と声をかけたほどだ。しかし、広野は野球人として新球団の土台作りに使命感を持っていた。辞めるわけにはいかないと決意を新たにし、広野は来季に向けての編成会議を開いたのだった。
「編成会議は来季に向けた重要な会議です。誰を戦力外にするか、どのポジションを補強し、どんな選手をドラフト指名するか、そして、監督やコーチの進退をどうするかというチームの指針を決めます。当時は野村克也さんの監督就任の噂が流れていましたが、田尾安志監督は3年契約でしたし、私もコロコロ監督を代えるべきではないと思っていました。そして、編成会議では田尾続投と決まったんです。それまで、オーナーには何度も我々の決定事項を変更されてきたので何回も、田尾でいきますよ、と念押ししました。オーナーは仙台ではなく東京にいたのですが、承認を得ました」
「この球団にいたら、いつか死ぬな」
しかし、会議終了後30分もしないうちに米田球団代表が「広野さん、大変です!」と血相を変えて飛び込んできた。
「米田は『田尾クビです!』と。『次は野村監督になります。東京でオーナーと島田亨球団社長(当時)の間で決まったそうです。もう、明日発表するということです』と米田は続けました。ほんとに、あの時は怒りでテーブルをひっくり返そうと思いましたよ。ふざけるな、なんのための編成会議だったんだと」
重要な編成会議の決定を一度了承したにもかかわらず、急転直下で方針を変更されたのだ。広野の怒りと徒労感たるやすさまじかっただろう。