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「大変です、田尾クビです!」楽天・初代編成部長が見た“地獄”「この球団にいたら、いつか死ぬな…」“突然すぎた”野村克也監督就任のウラ側
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byJIJI PRESS
posted2023/12/21 17:22
2005年12月、楽天イーグルスで就任会見をする野村克也監督
「1974年から、ロッテは宮城を本拠地とする旨を発表しました。しかし、同年のロッテが進出した日本シリーズでは後楽園球場が使用されました。『収容人数3万人以上』という実施要項がありましたが、宮城球場は2万8000人と3万人未満だったからです。さらに、ロッテは日本一になったものの、優勝パレードや祝勝会を本拠地とした宮城で行わなかった。そのことで、宮城のファンや関係者から批判が起こったのです。そのような歴史があるため、またプロ野球には梯子を外されるんじゃないかという意識が当時の宮城では強かった。しかし、選手の頑張りはもちろん、早くから公式応援歌を広めたこと、田尾監督が負けても負けても爽やかにインタビューに答えたことなどが、ファンの心を掴んだのだと思います」
「だから赤字になって潰れるんだよ」
初シーズンは38勝97敗1分とぶっちぎりの最下位に終わった楽天だったが、一方で経営面では黒字を達成。球団経営では黒字化は非常にハードルが高いとされ、当時は他球団でさえ赤字続きだったことから異例の業績と話題となった。その後、現在まで何度か黒字化に成功しているが、当初から三木谷オーナーの並々ならぬ意気込みがあったと広野は話す。
「球場を改修する際、座席数をオーナーは非常に気にしていました。『座席の間隔をあと5センチ、10センチ狭くしたら、座席数がどのくらい増えて、年間の売り上げはどう変わるのか。すべて計算しろ』とスタッフに発破をかけるわけです。プロ野球はビジネスだという主張を前面に出し、『これはボランティアではなく事業だ。金儲けのために球団を持つんだ。ここまでしないから、赤字を出して球団が潰れるんだよ』と言っていましたね」
批判されようが、黒字を追い求める姿は、まさに経営者のかがみだろう。
「ちなみに、当時はNHKの番組が我々スタッフに密着していましたが、番組はドラフトで苦心している私の『10年後には優勝するチームに変身します』というコメントで終わっています。オーナーからは『あれは広野さんのための番組ですか?』と言われましたね(笑)。1年目は本当に大変でしたけど、50年ぶりの新球団立ち上げに関われて、野球人として濃密でいい思い出になっていますよ」
稀代の起業家である三木谷オーナーとときにぶつかりながら、楽天の土台を作った広野。広野は楽天の仕事以降、プロ野球には関わらず、80歳になった現在でもアマチュアの指導に奮闘している。2年連続Bクラスと低迷しているイーグルスが、再び高く飛び立つ姿を広野は球界の裾野から見守っているのだ。
<前編、中編から続く>