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阪神岡田監督がファンの野次に激怒「誰に向かって言っとんねん!」歴史的な失速で「Vやねん」事件も…15年前、第1次岡田時代はこうして終わった
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byJIJI PRESS
posted2023/11/04 17:41
2008年10月20日。CSで中日に敗れた試合終了後、泣きながら外野のファンにあいさつをする阪神の岡田彰布監督
巨人は10月10日のヤクルト戦に勝ってマジックを1に減らすと、その日、同時刻に行われていた横浜との試合に阪神が敗れ、優勝が決まる。巨人にとっては、1996年に広島との最大11.5ゲーム差をひっくり返した「メイクドラマ」以上の大逆転劇となり、「メイクレジェンド」とも称されたが、阪神からすれば悪夢以外の何物でもなかった。
岡田はその夜、横浜の宿舎でコーチに集合をかけると辞意を伝えた。すでに9月の時点で優勝できなかったら監督を辞めると決めていたのである。コーチたちにも、球団からも慰留されたが、気持ちは変わらなかった。翌日、選手にも「みんな、よく戦ってくれた。でも優勝は逃した。この責任は私にある。だから今季限りで監督を辞める。ここまでみんな、ありがとう」と伝えた。最後の采配となったクライマックスシリーズでは、中日と3戦目までもつれ込んだが、藤川がタイロン・ウッズに打たれ、岡田は1期目の阪神監督を終える。
「優勝旅行はハワイがいいです」のワナ
後半の失速の要因には、北京五輪中の主力の不在、新井の離脱とアクシデントが続いたことも当然あるのだろう。そればかりでなく、2005年の優勝メンバーが2008年も主力だったことが、かえって油断を生んだとの見方もある。岡田は今年のインタビューで、《あの年はシーズン中やのに早く優勝旅行の行き先を決めようとなって、選手のなかでは『僕らはハワイがいいです』って話になっとったらしい》と話している(『Number』1074号、2023年6月22日発行)。のちに「優勝」の語を封印した理由がここからもうかがえる。
2005年の優勝メンバーの一人である鳥谷敬も、《やっぱり「追われる立場」を経験したことがない選手ばかりだったので、8月、9月になって巨人と対戦してもほとんど勝てない状態になってしまいました。05年の優勝を知っているメンバーが多かったので、優勝の良さを知っていることが逆にプレッシャーになったのかなという気がしますね》と振り返っている(『ベースボールマガジン』別冊薫風号)。
敗因は色々と考えられたとはいえ、それでもすべての責任は最終的な判断を下した監督にある。岡田はそう考え、辞任を決意したのだった。
<3回目《1992年編》へ続く>