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18歳なのに“プロ野球で敵なし”状態…松坂大輔の全盛期はいつだったのか? 21歳の沢村賞に反対の声も…「あの日、選考委員が語っていたこと」
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph byJIJI PRESS
posted2023/09/24 11:02
1999年12月、プロ1年目を終えた契約更改時の松坂大輔
『夢を見ない男 松坂大輔』(著・吉井妙子/新潮文庫)によれば、松坂はPLとの激闘後、チームメイトたちとボウリング場に遊びに行ったという。さすがに左手で投げたそうだが……。
ジムで出した「異常な数値」
最終学年になった松坂は、巨人のクロマティや大相撲の曙も通っていたジム「ライフ・サイエンス・ラボラトリー」に週3ペースで通い、基礎的な体力を鍛えていた。このジムは独自の方法で個人の運動能力を数値化しており、一般の男性の数値が300で松坂は通い始めたころは480。それが3年の終わりには7000に達して曙の5500を遥かに上回っていたという(同上『夢を見ない男 松坂大輔』より)。
大谷翔平や佐々木朗希などに比べれば体格に恵まれているとは言えないが、松坂の肉体はやはり怪物的だったのだ。奇跡の3部作は、作られるべくして作られたといえるかもしれない。
甲子園の優勝投手は大成しないとよく言われるが、松坂は違う。ドラフト1位で西武に入団して以降も快進撃を続けた。
高卒1年目の成績がスゴかった…
新人の開幕当初からローテーション入りして、その年16勝5敗で最多勝、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、新人王を獲得。高卒新人の最多勝は、1954年の宅和本司(南海)以来45年ぶり、高卒新人のベストナインは史上初、高卒新人投手の新人王も堀内恒夫(巨人)以来33年ぶりというプロ野球史に残る活躍だった。
松坂の偉業を振り返る際に頻繁に使われる、日本ハムの3番・片岡篤史が高めの155キロのストレートを空振りして片ひざをつく映像は、プロ初登板となる1999年4月7日の初回に記録されたものだ。
さらに、当時オリックスのプロ野球最強打者・イチローとの初対決で3打席連続三振を奪って「プロでやれる自信から確信に変わりました」の名言を放ったのが、同じく1年目の5月16日。これらのシーンを見ていた野球ファンは「この投手が去年の夏の甲子園で投げていたのだから、高校生に打てるわけない」と納得したものだった。