甲子園の風BACK NUMBER
《青春って密》《人生は敗者復活戦》“名言メーカー”仙台育英・須江航監督…「言葉力」の原点は高3時代「怒鳴ってばかり」の学生コーチ経験にアリ
posted2023/09/17 11:05
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph by
Hideki Sugiyama
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2018年の年明け早々、仙台育英の野球部監督に就任したという須江航の名前をネットニュースで見て、ふと目が止まった。
「もしかして、あの時の――?」
そこからさかのぼること17年前。2001年に行われた第73回選抜高校野球大会に出場した仙台育英で、学生コーチをしていた須江の姿がふと頭に浮かんだ。大会前に行われた甲子園練習で、ベンチから鋭い眼差しで選手の動きを見つめ、テキパキと動き回る須江は、高校生ながらまるで指導者のような雰囲気を醸し出していた。
当時の経験について触れようとすると、須江は少々苦虫を嚙み潰したような表情をのぞかせてこう口にした。
「あの時はね……自分、怒ってばっかりだったんですよね」
名伯楽・須江監督の高校時代は…?
須江の出身は埼玉県比企郡鳩山町。高校は地元の埼玉ではなく、甲子園出場を夢見て一般受験でも合格すれば入部できることを自ら調べた、東北の雄・仙台育英へ。晴れて一般入試に合格した須江は、宮城にある名門の門をくぐった。
だが、東北圏を中心とした有望な選手が集うハイレベルさを目の当たりにし、入学して2日で「何があっても自分が試合に出られることはないな」と、プレーヤーとして限界を感じたという。
当時の仙台育英は1学年50~60人いる大所帯で、一般生と特待生の扱いが違っていただけでなく、メンバー入りしている選手しか本格的な練習をさせてもらえなかった。
「時代が時代でしたから、メンバーに入っていない選手は自分でバットを振ることやノックを受けることはほぼなくて、1日お手伝いをして終わり。それでもメンバー入りを目指すのなら隙間時間を見つけて自分で練習して這い上がる……みたいな感じでした。ただ、実際に這い上がって来られたのは1学年に1、2人いるかいないかの険しい道でしたね」