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「楽しいほうを切り捨てて、つらい方、つらい方に歩んでいく。そうすると楽しい道が見えてくる」柔道家・阿部詩の矜持とそれを支えるプラスワンの存在。
posted2025/06/02 11:30

text by

雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph by
Wataru Sato
まるで自分の体の一部であるかのように毎日袖を通していた柔道衣は、しばらくの間、部屋のラックに入れっぱなしになっていた。
昨年7月の世界大会で喫した衝撃的な敗戦。優勝確実と言われながら喫した5年ぶりの黒星。パリから帰国した阿部詩は、外見上はいたって普通の生活を送っていた。部屋にこもってふさぎ込んでいたわけでもなく、心の痛手をことさらに感じさせる様子もなかった。
ただ、一つ「普通」と違ったのは、あれほど打ち込んできた柔道に対して自分がまったく向き合っていないということだった。
「畳の上に立ちたいなんて1ミリも思わなかったですし、そんなことは人生で初めてでした。しかも、そういう思いと向き合わずに、ずっとほっぽらかしにしていたんです」
柔道をしない。柔道衣に目を向けることすらない状態が続いた。久しぶりに柔道衣を引っ張り出したのは3カ月ほど経った頃。それも気合いのこもった練習のためというよりは、「ちょっとやってみるか」程度のものだった。
所属先の道場で、これまでやってきたのと同じように打ち込みを始める。
軽いウォーミングアップ程度なのにすぐに息が上がった。腕がぱんぱんに張り、じわじわと足にも疲労が溜まっていく。だが、肉体的な負荷の高まりとは裏腹に、阿部は心の靄が晴れていくような感覚を味わっていた。
「きつさが快感というんですかね。『あれ? なんかちょっといいな』と思っちゃったんです」
思った、のではなく、思っちゃった。意図せぬ気持ちがそんな言い方にも表れている。
「そこで自然と『あ、柔道しないといけないかも』という気持ちになったんです。柔道がすごく好きなんだと分かった瞬間に湧き上がるものがあった。もう一回戦いたいなって」
その日の練習に付き合ってくれたのは、練習パートナーの森和輝だった。阿部にとって欠かすことのできないプラスワンの存在だ。
「柔道ももちろん上手いんですけど、受けの感覚がすごく優れていて上手いんです。柔道は練習で自分の技の感覚を整えていかないといけない競技なんですけど、その歯車がすごく合うのが森さんの受けだったんです」
久々の練習で感じた心地よさ、そして復帰への前向きな気持ちも、森が相手だったからこそより強く引き出されたのかもしれなかった。
和輝くんは、私の第二の頭脳
森は阿部にとって日体大の先輩であり、兄・一二三の同級生に当たる。初めてサポートについてもらったのが2019年。当初は短期間のサポート予定だったが、東京での世界大会が1年延期されたことによって、地元での世界大会までタッグを継続することになった。東京での頂点獲得で、その関係が終わることはなく、両肩手術後の地道なリハビリにも、森は日々付き添ってくれた。
かくして二人三脚の歩みはもう5年以上になる。
「最初はただサポートでついてもらっていたのが、最近は本当に一緒になって戦っている感覚が強くなってきました。誰よりも私の柔道を研究して、相手のことも研究してくれる。私の第二の頭脳といいますか、和輝くんの頭脳がなければ、今の自分の柔道は作り上げられていないと思います」
阿部は今年2月の国際大会、グランドスラム・バクー大会で再起した。試合の緊張感、戦う楽しさ、優勝の喜び。柔道でしか味わえない特別な感情を味わいながら、「また始まるんだな」という覚悟が固まった。一方で、「もっともっと完成度を高めていかないと強い選手には勝てない」とブランクも感じる内容だった。
2カ月後、今度は全日本選抜体重別選手権に挑んだ。復帰後の最初の目標に据えた世界選手権(6月、ハンガリー)の代表選考会だ。相手は日本人選手ばかりとはいえ、バクー大会に比べて格段にレベルは高く、勝ち抜くのは容易ではなかった。
初戦、準決勝と難敵を打ち破っていき、決勝の相手は同い年の大森生純。阿部不在の間に52kg級のトップ戦線に躍り出てきた選手で、阿部と森も大会前から決勝に上がってくると想定して練習を重ねてきた強敵だった。
勝負は延長戦にもつれ込んだ。その1分過ぎ、阿部は大外刈りからの大内刈りで大森をとらえた。大森も阿部を抱え込んで投げ返しにきたが、「この位置ならば返されることはない」という確信をもって押し込んだ。
主審の一本の手が上がった瞬間、阿部は両手を握りしめ、喜びを爆発させた。厳しい戦いを乗り越えた達成感と、「絶対に優勝する」という自らの誓いを果たした喜びが大きな笑顔となって弾けた。畳を降りるとセコンドについていた森が待っていた。
メタモンみたいなんですよ
大会前、森からはLINEでこんなメッセージが届いていた。
「ロスまでの道を誰にも邪魔させないで戦っていこう」
その言葉通りに一歩を踏み出す優勝を果たし、阿部は欠かせぬパートナーと喜び合った。
「メタモンみたいなんですよ」
と、阿部は森のことを言い表す。
メタモンとはポケットモンスターに出てくるキャラクターの一つで、体の細胞の作りを組み替えて、他の生命体に変身する能力を有している。
普段の森はどちらかと言えば、柔らかく包み込むようなキャラクターだという。のめりこみがちな阿部に対して、鷹揚な構えを崩さない森。
「常に肩の力を抜いてそうなので、こっちもあまり堅苦しくならずに戦えるんです」
例えば練習後のこんな会話から、その関係性が見て取れる。
阿部「今日の練習どうだった?」
森「え? ああ、よかったんじゃない」
阿部「だから、ただよかったじゃなくて、具体的に言ってよ」
森「……」
阿部「そういう一つのことで私の柔道は変わるから」
車の運転に阿部が口出しをすると森がムスッとする。阿部が最近飼い始めた犬のことを森がいじり、今度は阿部が口をとがらせる。取材中も最初は「森さん」「森和輝さん」と努めて言っていたのに、すぐに「和輝くん」と普段の呼び方に戻ってしまった。それも2人の親しさを表しているように思える。
一方で森はLINEでのメッセージのように、熱い一面を見せたりもする。昨夏の世界大会でもそうだった。
「すごく意味があった」と振り返る、あの夏の団体戦
個人戦で衝撃的な敗戦を喫した阿部は、数日後に団体戦出場の打診を受けた。阿部は「私が出ていいんだろうか」と迷ったという。むしろ出たくないという気持ちの方が強かったのだろう。それだけ心の傷は深く、まだ生々しかったからだ。
だが、森は言った。
「ここで出ないと一生後悔すると思うよ」
頑として譲らないような厳しさがあった。阿部はそれを素直に受け止められたのか。そんなことはなかった。
「いや、もう後悔とかないから」
最初はそう思った。それでも、最後は出場に踏み切った。
「何もせずにただ(団体戦の)メダルを持って帰るのと、1試合でも日本チームに貢献してメダルをもらうのでは、自分のこれからの柔道に対するイメージが違ってくるのかもしれない」
森の言葉を聞いて、自ら考え、そう思い直したからだった。
阿部は初戦のスペイン戦で起用され、ポイントを先行される苦しい展開から逆転勝ちを収めた。決定戦の末に薄氷の勝利をものにした日本にとって、価値ある大きな白星だった。
阿部も団体戦を振り返ってこう思いを述べる。
「自分の中ではすごく意味があった。あの1回、もう一度パリの畳に上がったことで、これから踏み出す一歩がまた違ってくると思います」
森との練習の日々に舞い戻った阿部は、6月の世界選手権に向けて張り合いのある日常を過ごしている。
柔道から離れて「どっちを向いたらいいんだろう」と途方に暮れていた時期は抜け出した。今は「前しか向いていない」と進むべき方向が定まった感覚がある。
勝負の世界は厳しく、勝利をつかむためには妥協は許されない。それはときに息苦しさを覚えるほどで、解放されるのは勝利の一瞬だけ。それでも、その一瞬のために生きるのが柔道家としての阿部のスタンスだ。
「最近気づいたんです。つらさに応じて楽しいことを求めてしまうと、つらい気持ちを認めたくなくて楽しい方を選んでしまう自分がいる。まずは楽しい方は切り捨てて、つらい方、つらい方に歩んでいく。そうすると楽しい道が見えてくるような実感があります」
「なんでこんな日々を生きてるんだろうと思うし、本当に地獄なんですけど、いつか前を向ける日が来る。その時は信じられないけど、いつも最後はそうなっている自分がいるので、大丈夫なのかなと思います」
いつかあの大きな敗戦を、そのつらさをあらためてかみしめる時も訪れるはずだ。
「(パリで負けた)あの1試合はまだ見返すことができていません。投げられたシーンはSNSでも回ってくるので、そういうのは見たんですけど。いつかしっかりと(試合全体を)見返して、もっと自分と向き合う時期が絶対に来ると思います」
まずは世界選手権で再び頂点に立つことから始まる。
森とは課題を確認し合い、心技体を完璧にそろえていこうと話しているという。
「柔道は厳しいスポーツ。1mm、0.1mmの足の位置、組み手の位置の違いで一瞬でやられてしまう。その一瞬が起きないように、しっかり積み上げていきたいです」
畳に向かう阿部はいつもひとりじゃない。
その柔道衣をラックにしまっておく暇もしばらくはなさそうだ。
阿部 詩Uta Abe
2000年7月14日生、兵庫県出身。'21年東京五輪では女子52kg級(以下同)に出場し、金メダルを獲得。'24年パリ五輪は2回戦敗退、混合団体で銀メダル獲得。世界選手権は'18年、'19年、'22年、'23年に優勝。'25年グランドスラム・バクー、 全日本選抜柔道体重別選手権大会で優勝。 パーク24所属。158cm。
adidasが2024年1月よりグローバルで展開する「YOU GOT THIS(大丈夫、いける。)」。2025年はアスリートをプレッシャーから解放し、支えとなり、ポジティブな影響を与えてくれる「プラスワンな存在」に焦点を当て、様々なアスリートが「ひとりじゃないから。大丈夫、いける。」と思えるエピソードについて語ってもらいます。
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