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本山雅志44歳が語った引退秘話…2度目の契約満了→実家の鮮魚店でアナゴをさばく日々→初の海外挑戦「40歳過ぎてやれると思ってなかった」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJ.LEAGUE
posted2023/08/27 11:06
今年4月にカシマスタジアムで現役引退を発表した本山雅志
1年にわたってケガ続きだった傷だらけの肉体を休めることができ、心身ともにリフレッシュできた。そのままフェードアウトするのではなく、サッカー復帰への情熱がふつふつと湧いてきた。
本山は珍しく、鹿島時代から代理人をつけていない。そのため移籍情報などはサッカー仲間頼りで、サッカー界から距離を置くと浦島太郎状態に近かった。社会人クラブからのオファーもあったなか、日本人監督が指揮を執るマレーシア2部クランタン・ユナイテッドの話が舞い込んできた。一度は海外でやってみたいという思いもあっただけに、環境面は二の次にして41歳にして海を渡ってプレーすることを決断した。
サッカー文化の違いは、想像以上ではあった。
「タバコを吸っている選手がいて、監督が“試合のときはやめよう”と呼び掛けてもハーフタイムにトイレで吸っていたりする。もちろん真面目にサッカーに取り組んでいる選手もいるんですけど、全体的には意識が低い。練習でも年功序列が強くて、後輩は先輩に対して体を寄せることができない。そういったことを指摘しても、文化の違いなのか響かないんですよね」
バスでの長時間移動は当たり前。片道10時間以上かかることもあった。サッカー自体も「みんな前に行ったら行きっぱなし」。それでもケガなくサッカーをやれていることを、幸せに感じた。厳しい環境も今後の人生において、人間力を高める修行だと捉えることができた。マレーシアではピッチ外で、大変なこともあったという。試合に出続けた2シーズンを終え「あと2年くらいはやれそうな余力はあった」なかでスパイクを脱ぐ決断を下した。
古巣アントラーズのアカデミースカウトに就任
病気やケガが続きながら、43歳までプレーできるとは何より本人が思っていなかった。
本山はこう語る。
「正直、プロで10年くらいやれればいいと思っていました。30歳までやっていたら自分の現役人生は大成功だ、と。だから40歳過ぎてまでやれるとは思っていなかったし、ケガで休み休みやっていたから10年長くなったのかなとも捉えています。サッカーからもらった財産を、今度は還元していければいいなって思います」
7月に古巣・鹿島アントラーズのアカデミースカウトに就任したばかり。アカデミーの巡回指導も積極的に行なっている。11月19日にはカシマスタジアムで引退試合が行なわれることも発表された。
「スカウトをやっていくなかで鹿島のアカデミーに所属する選手のレベルやクオリティを知っておかなければならないので、子供たちを指導させていただくようにお願いしました。よく練習しているなっていう選手は大体ボール扱いがうまい。誰が見てもそこは分かるところ。あとはゲームを読む力だったり、流れを変える力だったり、そういう感性を持っている選手に僕は自然と目が行きますね。
この仕事はメチャメチャやり甲斐があります。自分で選手を見つけてアントラーズに来てもらったら、ユース監督のヤナさん(柳沢敦)、テクニカルアドバイザーのミツ、ユースGKコーチのソガ(曽ヶ端準)ら一緒にプレーした仲間が教えてくれる。あの人たちなら絶対に子供たちをうまくできるっていう確信があるから、何より任せやすい。サッカーがうまくなりたい、楽しみたいっていう子供たちに自分の経験からアドバイスを送っていきたいし、一緒にサッカーをやっていきたい」
天才かどうかなんて、彼からしたら取るに足らないことなのかもしれない。
好きこそものの上手なれ。好きに勝るものなし。
本山雅志の指標は、ずっとそこにあるような気がしてならない。