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「翔哉、日本代表でプレーしたくないか?」27歳で引退…“早熟の天才”菊原志郎が“天才少年たち”に贈った言葉「昔は僕も翔哉と同じでした」
posted2025/03/17 06:02

1996年限りで現役引退した後は、育成の指導者としてキャリアを積み上げてきた菊原志郎(55歳)
text by

杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph by
Hideki Sugiyama
選手生活に自らピリオドを打ったのは27歳。プロサッカー選手として、最も脂が乗っている時期と言ってもいい年齢である。『天才少年』『日本の未来を担う逸材』と騒がれた菊原志郎にとっては早すぎる引退に思えるが、現役に未練はなかった。
もともとサラリーへの執着もない。Jリーグのバブル期を過ごしながら派手な生活には縁遠く、プロでの大きな買い物は移動で使う車を購入したくらいだ。潔くスパイクを脱ぐと、ぼんやり“第2の人生”を考えた。
「正直、何も決まっていなくて。サッカー以外にもいろいろ興味があり、漠然と陶芸家にチャレンジしてみようかなと思った時期もありました」
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クラブに残るレールが敷かれていたわけではない。ヴェルディ川崎の森下源基社長(当時)と面談したときに初めて育成年代の指導者への道を勧められた。
「そこで、考えました。小学校4年で読売クラブに入り、最初に指導してもらったのが千野徹監督(現流通経済大付属柏高校コーチ)。中学生になり簗島清高コーチ、小見幸隆さん、竹本一彦さん。トップチームでは奥田卓良さん、千葉進さん。あのときの教えが良かったから、その後の菊原志郎があったんだと思います。僕自身、子供の頃から良い指導者に恵まれてきました。これまで積んできた選手としての経験を伝えるのも、自分の役割なのか、と。次は僕が指導する番。これから育ってくる子どもたちにとっての良い指導者になろうって」
「トップの監督」より魅力的だった仕事
1996年限りで現役を退くと、翌年からはヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のアカデミー組織の指導者として働いた。それ以来、育成年代の指導にずっと情熱を傾けているが、2007年、2008年だけは東京ヴェルディのトップチームでコーチを務めている。
「監督だったラモス(瑠偉)さんに『志郎、手伝ってくれ』と頼まれれば、『はい』と言うしかないですよ(笑)。翌年も、指揮を執った柱谷哲二さんのもとでコーチを務めました。その頃、(日本代表やJクラブの監督に必要な)S級ライセンス(現JFA Proライセンス)を取得したのは、2人に『取ってこい』と言われたからです。正直、当時はトップチームの監督になりたいとは思ってませんでした」
育成年代で経験を積んでステップアップしていく指導者は多いが、菊原はそのタイプではない。むしろ、中学年代、高校年代の選手たちを育てるのが天職。自らの経験を還元しながら指導を続けることに生き甲斐を感じているのだ。指揮官として、表舞台で脚光を浴びることにもこだわっていない。