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【引退】早熟の天才・前田俊介はなぜトリニータで輝けたのか “美しすぎるボレー”など超絶テクニックと、ある変化
posted2021/01/17 11:01
text by
柚野真也Shinya Yuno
photograph by
J.LEAGUE
野武士のような風貌とは裏腹に、プレーは爽快かつイマジネーション溢れるテクニックのオンパレードで観る者を魅了する。早熟の天才と呼ばれた前田俊介。
サンフレッチェ広島アカデミーからトップ昇格し、大分トリニータ、FC東京、北海道コンサドーレ札幌、ガイナーレ鳥取と渡り歩き、最後は沖縄SVでプレーした。J1からJ3、九州リーグと渡り歩いた前田が、34歳でスパイクを脱いだ。
あの美しすぎるボレーシュートを見たのは、ついこの前のことのような錯覚に見舞われてしまうが、取材現場で積み上げた思い出の数々が蘇り、感慨にふけってしまう。マエシュン・ファン、マエシュン・ウォッチャーの方々ならなおさらのことだろう。
広島ユース時代“数十年に一度の逸材”
前田俊介の名が日本サッカー界に知れ渡ったのは広島ユース時代。同期の森脇良太や高萩洋次郎らとともに広島ユース黄金期を築く。高校3年間で全日本ユース選手権など数々のタイトルを勝ち獲り、“数十年にひとりの逸材”と称され、だれよりも将来を嘱望された。
高校3年時の2004年には2種登録でJリーグデビューを飾り、翌年にはプロ契約を交わし、26試合で5得点を記録。またU―20日本代表としてオランダワールドユース選手権に出場し、オーストラリア戦では起死回生の同点ゴールを奪い、決勝トーナメント進出に大きく貢献した。その卓越した技術は同年代でもズバ抜けており、家長昭博はこれまで出会った選手の中で「天才と呼べるのは前田しかいない」と断言する。
ミシャの求めるプレーができず出場機会減
しかし、プロ2年目から天才肌のストライカーは苦悩の日々を過ごす。
当時の監督ペトロヴィッチの求めるプレーができず、徐々に出場機会を減らし、3年目のシーズンは出場機会を1度も与えられず、その才能をもて余した。