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小学生の板倉滉は「泣き虫」、罰走を命じられた中学2年・堂安律の“意外な返答”、冨安健洋16歳を見た井原正巳の第一印象とは
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph byTakuya Kaneko/JMPA
posted2022/12/20 17:07
カタールW杯スペイン戦後の(左から)板倉滉、堂安律、冨安健洋
「こちらがストップを掛けないと、やりすぎるくらい練習熱心。練習後、筋トレルームでひとり残って、補強をしていたりする。冨安というと、その姿を思い出しますね」
井原だけでなく、当時を知るアビスパのアカデミー関係者が異口同音に冨安のサッカーに対する実直さを語っていた。それが今もなお続いているからこそ、ワールドクラスのDFという階段を一段ずつ上ることができているのだろう。
板倉が“鬼木コーチ”に読んだ手紙
<名言2>
コウは小学校の時から知っていますが、当時は本当に可愛らしく、負けず嫌いで、泣き虫な子という印象でしたね。
(鬼木達/NumberWeb 2022年11月22日配信)
https://number.bunshun.jp/articles/-/855446
◇解説◇
冨安、酒井宏樹、遠藤航と、今回の日本代表は最終ラインからボランチにかけて故障者やコンディション不良の選手が続出した。その中でレギュラーとして奮闘したのが板倉滉だ。
初戦ドイツ戦では吉田麻也とともに4バックのセンターバックとして前半は耐え忍ぶディフェンスを見せ、続くコスタリカ戦、スペイン戦と3試合連続でフル出場を果たした。フィールドプレーヤーとしてグループステージすべての時間でピッチに立っていたのは、板倉とキャプテンの吉田麻也だけ。そのプレータイムに森保一監督からの信頼度の高さが読み取れる。
そんな板倉は幼少期から川崎フロンターレのアカデミー育ちで、同クラブの後援会にも属していた。川崎の本拠地である等々力陸上競技場に開門前から並んで観戦していたという逸話を持つほどのサッカー愛が強い少年だった。そんな彼を2007年、U-12チームのコーチとして指導したのが、フロンターレで現在トップチームを率いる鬼木監督だった。
「僕がU-18の担当に替わる時、メンバーを代表してお別れの手紙を読んでくれたのもコウでした。泣きながら思いを伝えてくれた姿は今でもハッキリ覚えています(笑)」
シャルケ時代、自分のユニを着たファンに対して…
さらにトップチームの指導者としての視点で、プロサッカー選手となって以降の板倉についてもこのように話している。
「コウの1年目(15年)は“勢い”でサッカーをやっていましたね。(17年の)ACLでも当時のブラジル代表だったパウリーニョと対戦する時、意気揚々と『やってやりますよ!』とピッチに出ていきましたけど、帰ってくると『やばかったです』と言っていたり(笑)。純粋で初々しい姿を覚えていますね」
みずみずしく感情を表現するのが板倉の魅力だ。その姿は期限付き移籍したベガルタ仙台でも大きなサポートを受け、その後旅立ったヨーロッパでも認められると、21-22シーズンに所属したドイツの名門シャルケでブンデス1部昇格の立役者となり、サポーターから愛された。
ちなみに板倉は昨季最終戦翌日のパーティーで、自身のユニフォームを着用したサポーターに自ら握手を求めに行ったところ、そのファンが「ビックリしていた」と語っていたこともある。周囲を巻き込むナイスガイぶりは、年齢を重ねるにつれて磨かれている。