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「僕は自分を売り込みに来たんだ」25歳の永島昭浩は欧州王者のPSVに加入するはずだった? カズと並ぶ“次世代スター候補”だった頃
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byEstuo Hara/Getty Images
posted2022/10/31 11:02
Jリーグ開幕前、欧州挑戦を模索していたFW永島昭浩(58歳)。当時のエピソードや日本代表で同部屋だったカズとの秘話を明かした
一方、永島が加わった日本代表は、新時代を迎えようとしていた。ブラジルから帰化したラモス瑠偉と、ブラジル帰りの三浦知良(カズ)が日本代表に選出されたのである。
90年9月に北京で開催されたアジア競技大会ではカズとの2トップが期待された永島だったが、直前に行われた壮行試合で相手GKと接触して右の内側靭帯を損傷。アジア競技大会はピッチの外から眺めることになる。
「(日本サッカー界初の外国人コーチである)デットマール・クラマーさんが臨時コーチで来られていたんですけど、『日本のストライカーが怪我をしてしまった』と落胆されたのを覚えています。すごく調子が良かったから、試合に出られないのが歯痒かったですね」
だが、彫りが深く、端正な顔立ちの永島は、日本サッカー界に現れたスター選手として期待されていた。90年12月の『Number』本誌では、次世代スター対談として永島とカズの対談が組まれている。
今と違って当時のサッカーはマイナー競技だったから、巻頭を飾ったわけではない。ラグビー特集号の後ろのほうにひっそりと掲載されたその対談で、ふたりは「変えてみせるぞ日本サッカー」と題し、フィールド哲学を披露している。
『タイトルがかかった試合の経験を積まなければだめだと思いますよ。親善試合ばかりでは。いきなり大きな試合が初めてではやはり勝てない。』(永島)
『対外試合を常にやっていることですよ。韓国や中国なんかは、国をかけてやってきますからね。そういう気持ちが日本人には足りない。』(カズ)
永島はオランダ、カズはブラジルと、互いに海外のサッカーを知るふたりが、意気投合する様子が伝わってくる。
カズとの思い出について、永島が語る。
「いやあ、その対談は覚えてないですねえ。どんなこと言うてたんやろか(笑)。カズとは同部屋になることが多かったんですけど、なんかの合宿でカズが高熱を出したもんだから、看病したのは覚えてます(苦笑)」
ドーハの悲劇「W杯に行けたら自分にも…」
91年7月の日韓定期戦後に横山監督が退任し、92年5月にオランダ人のハンス・オフトが代表監督に就任すると、永島はしばらく代表から遠ざかった。しかし、93年のJリーグ開幕以降、ガンバのエースストライカーとしてゴールを量産すると、日本代表復帰の噂が囁かれるようになる。
「ガンバの関係者からも『代表候補に入っているそうだぞ』と言われたりしていましたからね」
だが、熱望していたW杯アジア最終予選への出場は叶わず、日本代表もアメリカ大陸に辿り着くことはできなかった。
「アメリカへは行ってほしかったですね。日本サッカーのためにも頑張ってほしかったし、W杯に行けたら、自分にもチャンスが回ってくるかもしれない。そういう思いもありました。だから、“ドーハの悲劇”はとにかくショックでしたね」
同じ頃、永島自身もガンバで窮地を迎えていた。シーズン前半は9ゴールを奪い、代表スタッフが興味を示すほどだったにもかかわらず、夏場以降は3ゴール……。
ガンバを率いる釜本邦茂監督のもと、永島の出場機会はどんどん減っていた。
「選手からすると、監督が自分のことを使う気がないのはわかるんですよ。あ、俺、もう構想外なのかなと。そう感じましたね」
スポーツ紙や週刊誌では、エースと指揮官の確執が盛んに報じられた。
(つづく)
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