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「僕は自分を売り込みに来たんだ」25歳の永島昭浩は欧州王者のPSVに加入するはずだった? カズと並ぶ“次世代スター候補”だった頃
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byEstuo Hara/Getty Images
posted2022/10/31 11:02
Jリーグ開幕前、欧州挑戦を模索していたFW永島昭浩(58歳)。当時のエピソードや日本代表で同部屋だったカズとの秘話を明かした
「大きなチャンスをうまく掴めたな、と興奮しましたねえ。そのあと、たくさんの記者に囲まれたのも覚えています。ただ、若い記者たちがオランダ語で質問してきたので、何も答えられなかったんですけどね(苦笑)」
この活躍を受け、トップチームの練習に参加する話が進む。このまま順調に事が運べば、34歳年下のガンバの後輩ではなく、永島こそがPSV初の日本人選手になっていただろう。
しかし、現実は甘くなかった。
「股関節に炎症があって、痛みで練習参加できなくなってしまって。のちにスポーツヘルニアだと分かったんですが。最初にしっかり意思表示できなかったことや、体のケアができていなかったことなど、自分の未熟さを痛感しました。プロというものを甘く見ていたというか」
帰国後に覚醒、JSL1部で15ゴール
ヨーロッパでプロとなる千載一遇のチャンスを逃したが、約1カ月間の挑戦が無に帰したわけではない。それどころか、永島は大きな財産を手にした。
本格的なストライカーへの変貌である。
松下電器加入後の6シーズンにおけるリーグ戦でのキャリアハイは7ゴールだったにもかかわらず、帰国後の89-90シーズンはJSL1部で15ゴールをマーク。日産自動車のレナトと最後まで得点王を争ったのだ。
「いいポジションを取ることが重要で、そのうえで選択肢を作る。そこに思い切りよく、迷いなく入って行くことが大事だと学びました。向こうのFWはとにかく点を取ることに集中しているんですよ。ストライカーにとって必要なものが整理されました」
ストライカーとして覚醒した永島は、さらにふたつの栄誉をつかみ取る。
ひとつは念願だった日本代表への招集である。
横山謙三監督から声がかかり、真っ赤な日本代表ユニホーム(当時は赤だったのだ!)に袖を通した永島は、90年7月に中国で開催された第1回ダイナスティカップ初戦の韓国戦でデビューを飾った。