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落合博満「どうする?」「ちょっと聞いてきます…」 山井→岩瀬、14年前“消えた完全試合”の夜…中日のブルペンでは何が起きていた?
posted2021/10/02 17:03
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
BUNGEISHUNJU
そのなかから、14年前の日本シリーズ、あの“消えた完全試合”の場面を紹介する。8回まで日本ハム打線を完璧に抑えた山井大介。その山井から岩瀬仁紀へ継投を決めたとき、中日のブルペンでは何が起きていたのか? 森繁和バッテリーチーフコーチ(当時)らが回想する(全2回の1回目/後編へ続く)。
森はコーチとしての選択を迫られていた。
眼前には8回表を投げ終えて、万雷の拍手を浴びながらベンチへと戻ってくる山井がいた。ひとりのランナーも許さず、史上初の大記録に手をかけている。
自分のすぐ横のモニターにはブルペンが映っていた。そこにはひとり、ピッチング練習をする男がいた。岩瀬だった。
残された選択肢は二つに一つ。続投か継投か。山井か岩瀬か。
ふと、森は思った。
そもそも完全試合にリリーフが必要なのか?
あまりにも当たり前で、今まで浮かんだことすらない問いだった。
「いつまで同じことをやらせるんだ!」
森はよく投手陣にこんな話をした。
「俺はお前らの口から限界なんて聞きたくない。投手は、ひとりで投げ切るに越したことはないんだ。継投すればするほど、チームにとってはリスクが高くなるんだ」
森は才能のあるピッチャーが能力を出し切らずに降板することが何よりも嫌いだった。
それは自身が現役時代に、怪我によってユニホームを脱いだことが影響していたのかもしれない。
24歳で西武に入った森は、先発投手として活躍した後、27歳でストッパーとなった。ライオンズ黄金期の幕開けとなる1982年、1983年、2年連続日本一の一翼を担った。しかし、29歳で右肘を壊すと、かつての球威は見る影もなくなった。
復活を模索した末に、当時の日本では例のなかった肘の靭帯再建手術を受けるため、アメリカの権威フランク・ジョーブの執刀に委ねることにした。
手術はあっという間に終わった。地獄はその後だった。乾いた空の下、気の遠くなるようなリハビリが森を待っていた。来る日も来る日も、まるで重さを感じないゴムチューブを右手で何度も何度も引っ張るだけだった。
俺の肘は治るのか?
1週間、10日が経っても日々は変わらなかった。そして1カ月を過ぎたころ、森の精神は限界に達した。
「いつまで同じことをやらせるんだ! 一歩も進んでないじゃないか!」