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落合博満「どうする?」「ちょっと聞いてきます…」 山井→岩瀬、14年前“消えた完全試合”の夜…中日のブルペンでは何が起きていた?
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2021/10/02 17:03
04年から11年まで中日の監督を務めた落合博満。すべての年でAクラス入り、セ・リーグ優勝4回、日本シリーズ優勝1回を果たした
「どうする――」
いつも何も言わない落合が、森に問うた。それはつまり、落合の中で答えが出ているということだった。9回のマウンドには岩瀬を上げる。そう言っているに等しかった。
「ちょっと訊いてきます……」
森はそう告げて、落合のもとを離れた。
「えっ」ブルペンの通話機が鳴った
ブルペンは静かだった。じっと、最終回が始まるのを待つような空気があった。そのなかに岩瀬の投球音だけが響いていた。
岡本真也は壁にある通話機を見つめていた。ベンチからの指令を受けるためのものだ。ドアや壁面と同様に余分な装飾はなく、無機質に沈黙している。
その機械音が鳴ると、リリーフ投手たちは一瞬ビクッと身を震わせる。それは、勝利と敗北の狭間で煮えたぎったマウンドへの召集を告げる報せであるからだ。
ブルペンという英語には、闘牛場へ引っ張り出される前の牛を囲っておく場所という意味があるのだという。その通りだった。呼ばれれば、リリーバーはどんなに怖くても、もうマウンドに向かうしかない。ただ、この試合ばかりは召集音は鳴らないはずだ。9回のマウンドに上がるのは山井のはずだ。
岡本の祈りは続いていた。
密室を震わせる高い音が響いたのは、そのときだった。
岡本と他のリリーフ投手たちの「えっ」という声が重なり、誰もが通話機のほうを振り返った。視線の先でブルペン担当コーチが強張った表情で受話器を上げた。一瞬の無言を挟んで、「わかりました」と短く頷くと、コーチは岩瀬を見た。
「いくぞ」
ブルペンは静まり返っていた。岡本は全身の力が抜けていくのを感じた。
岩瀬がマウンドに召集された。山井はプロ野球史上初めての大記録を目前にして、マウンドを降りるのだ。落合はやはりそういう決断をした。もう、岡本を続投させた3年前の落合ではなかった。これがこのチームの戦い方なのだ。
指示を受けた岩瀬は、いつものように「はい」とだけ返事をして、グラウンドへ向かう準備を始めた。リリーフ投手たちの間で「力水」と呼ばれる一杯の水を口にふくむと、ブルペンの仲間たちの拍手に送り出されて、自らの戦場へと向かった。
岡本はドアの向こうへ消えていく岩瀬の背中を呆然と見送った。(後編に続く)
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