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落合博満「どうする?」「ちょっと聞いてきます…」 山井→岩瀬、14年前“消えた完全試合”の夜…中日のブルペンでは何が起きていた?
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2021/10/02 17:03
04年から11年まで中日の監督を務めた落合博満。すべての年でAクラス入り、セ・リーグ優勝4回、日本シリーズ優勝1回を果たした
森の剣幕を前に、医師はじっと黙っていたが、やがてひとつ息をつくと、ハサミを持ってきた。それでゴムチューブを真っ二つに切った。森はその断面を見て、愕然とした。
ゴムチューブの中には無数の細いゴムが通っていた。医師は1日に数本ずつ、それを増やしていたのだ。患者が先を急ぎすぎて、肘の痛みが再発しないように……。
森はそれ以上、何も言えなかった。胸にこみ上げるものがあった。
それからは、ただひたすらゴムチューブを引っ張った。
結果的に森の肘は元に戻らなかった。その後、再びスポットライトを浴びることなくユニホームを脱いだが、コーチとなってもあの日に見た断面を忘れることはなかった。
ピッチャーが投げるというのは、あの無数のゴムのような小さな積み重ねだ。それだけの奇跡なのだ。
だから森は、投手たちがマウンドに立つことのできる「今」を無駄にすることが許せなかった。まだ投げられるのに、自らの心の弱さからマウンドを降りてしまうことが我慢ならなかった。
落合「どうする」「ちょっと訊いてきます……」
森は、山井を見て思った。
俺なら、絶対に代わるのは嫌だ。
それが投手として生きてきた男の本音だった。
だが、その胸のさらに奥底には、山井の降板を考えている自分がいた。
一人でもランナーが出れば、どうなるかわからない。この試合を落とせば、シリーズの行方もどうなるかわからない。1点差の9回、抑える確率でいけば……岩瀬だ。
この矛盾した思考の元をたどれば、岩瀬というストッパーの存在があり、何より、その後ろには落合がいた。
勝つために、その他の一切を捨て去る。森は落合の下で、そういう野球をやってきた。だからここまで辿り着けた、とも言える。
森は隣を見た。落合は微動だにせず、ベンチに座っていた。
「俺は投手のことはわかんねえから、お前に任せた――」
いつものように黙していた。それでも森には、落合の考えていることがわかった。だから迷っていた。記録と勝利、ロマンと現実、個人と組織。その狭間に森は立っていた。 8回裏の中日の攻撃が始まろうとしていた。もう時間はなかった。このイニングが終わるまでに、9回のマウンドに誰を送るのかを決めなくてはならない。
落合が口を開いたのは、そのときだった。