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<ナンバーW杯傑作選/'05年1月掲載> アジア杯・ヨルダン戦 「奇跡には理由がある」 ~鬼神・川口のスーパーセーブ~
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph byMichi Ishijima/Tsutomu Kishimoto
posted2010/05/24 10:30
過酷な環境が日本チームを“無”の状態に近づけた?
「どちらが先に蹴るか、コイントスをするでしょう? 投げる前、主審に自分はどっちだということをいっておくんですが、あの時は自分がどっちを選んだのかわからなくなってしまった。疲れてて、朦朧としていたんです」(宮本)
90分+延長戦30分。これだけでも十分に消耗するのに、会場の重慶は、曇り空とはいえ27℃を超す暑さという過酷な気象条件だった。意識が朦朧とするのも当然だろう。もちろん、普段からの集中力の鍛錬は十分に認めた上での話だが、この消耗が、図らずも日本チームを無の状態に近づけたとはいえないだろうか。そうでなければ、0-2とリードされたPK戦を逆転するといった離れ業を、チームで成し遂げることなどできなかっただろう。
キッカーの集中もすばらしかったが、川口のセーブも、無に限りなく近づいた集中の成果と見るほかないような見事さだった。川口は2本をセーブしたのだが、どちらもキャッチしたり、完全にゴールの外に弾いたりしたのではない。2本ともボールを手に当て、そのボールがバーやポストに触れてからゴールを外れたのだ。
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「1、2本目は逆をつかれ、3本目も逆だったんだけど、一応ジャンプできた。そのとき何かが吹っ切れたんです。それまでは周りの状況が視界に入ってきてたんですが、3本目に跳んでからは、音は聞こえない、ボールも見ているのに見えない。完全に自分の世界に入りました」(川口)
PK戦は限りなく武道の試合に近い要素を含んでいる。
幻聴や幻視さえない空白の領域。
スケートで日本人初のメダルを獲った北澤欣浩は、オリンピックのそのレースだけ、バックストレッチでコーチの指示が聞こえたそうだ。川口は逆に「聞こえなくなった」のだが、不思議な領域にふみ込んだ点ではよく似ている。
無に近づくことで集中する、などと書くと、サッカーではなく武道の話でもしているのかと思う人もあるかもしれない。実際、PK戦は、サッカーの中では限りなく武道の試合に近いような異質な要素を含んでいる。
「GKと向き合った時点では、どちらに蹴ろうとは決めてなかったです。GKの動きを見て蹴りました。蹴る方向よりも、自分のタイミング、リズムで蹴るようにして。あの時でいうと、GKがぐっと体重を一方にかけようとしたんで、そのタイミングを外そうと助走のテンポを変えて蹴った」(福西)
剣道の試合を思わせるコメントではないか。もっとも、中澤のように、「最初から左にドスンと蹴ろうと決めていた。蹴る直前、GKと向き合っても、その考えは変わらなかった。キックもそのとおりにいったんですけどね……」という選手もいる。鈴木のように、「やっぱり、まず方向を決めて蹴りますよ。GKを見てからなんて、自分には考えられない」という選手もいる。
しかし、これらの違いは、政治や心理学まで内包した柳生新陰流と、ひたすら上段から打ち込む薩摩の示現流の違いのようなもので、1対1の武道的な局面で、どうやって相手を制するかの方法論の違いなのだ。武道的な戦いであるからこそ集中力が成否を決める。戦略だとか、広い視野だとかは重んじられない。チーム全体の方向性すら、時には棚上げにされる。