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「100人いた野球部員が15人まで減少」高校野球“消えた名門”箕島高校の今…地元の人が「昔は強かったみたいですね…」甲子園優勝4回、奇跡の公立校に何が? 

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曹宇鉉

曹宇鉉Uhyon Cho

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posted2025/08/18 11:20

「100人いた野球部員が15人まで減少」高校野球“消えた名門”箕島高校の今…地元の人が「昔は強かったみたいですね…」甲子園優勝4回、奇跡の公立校に何が?<Number Web> photograph by NumberWeb

春夏合わせて4回甲子園優勝している名門・和歌山県立箕島高校(有田市)

「昔は強かったみたいですね。でも、リアルタイムでは全然知らないんです。有田市出身なんですけど、野球もあまりわからなくて。ごめんなさい」

 テイクアウトでコーヒーを頼んだだけのよそ者に「熱中症、気をつけてくださいね」と冷たい水を供してくれた親切心に感謝しながら、同時に寄る辺ない気持ちになる。およそ半世紀も前のことなど、それ以降に生まれた世代は知らない。知るはずもない。1989年生まれの筆者にも、当然ながら箕島が強かったころの記憶はない。NHKの甲子園中継の合間に挿入される「白球の記憶」と、そこに映し出される「尾藤スマイル」、いくつかの関連書籍、実感のわかない資料的な事実。おおまかにいえば、それらが箕島について知っていることのすべてだった。

現監督に聞く「箕島はなぜ勝てなくなった?」

「たしか少年野球をはじめたばかりで、練習帰りやったかな。まだ野球の“や”の字もわかっていないころやったんですけどね。いまも鮮明に覚えてますよ」

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 箕島高校野球部現監督の北畑清誠(きたはた・きよせい)は、1979年のあの夏の日をたしかに記憶していた。有田市に隣接する有田郡有田川町出身、1971年生まれの54歳。小学2年生だった北畑が甲子園の中継にチャンネルを合わせたとき、すでに日は沈んでいたという。

「そう、ナイターでね。たぶんもう終盤やったと思います」

 当時の北畑少年が、その試合をどれほど特別な記憶として胸にとどめていたのかは定かではない。それでも、となり町にある高校の「日本一の野球部」に憧れを抱くには十分だった。尾藤監督の箕島で野球をやることは、中学時代まで有力な選択肢であり続けた。

 だが高校受験にあたり、鉄工所を営む父に「野球でメシは食えんど」と釘を刺された。進学先に選んだのは、学力面や進学実績において箕島よりも優れていた有田郡湯浅町の耐久高校だった。この1852年創立の伝統校がのちに箕島の“競合相手”になることなど、このときの北畑には知る由もない。

 日体大を卒業し、有田中央と母校の耐久で監督を経験した北畑は、2019年に箕島OB以外で初めて同校野球部の監督に就任した。野球の原体験ともいえる箕島に、巡り巡って指導者として携わる。情熱は疑うべくもない。OBではないとはいえ、いや、むしろOBではないからこそ湧き上がる使命感もあるだろう。それでも聞かなければいけない。「箕島は、なぜ勝てなくなったのですか?」と。

<続く>

#2に続く
「僕らは箕島を残せるんだろうか…」あの甲子園連覇の“名門公立校”で定員割れ、衝撃の倍率0.74「本当にきついです…」箕島野球部監督の告白
この連載の一覧を見る(#1〜5)

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