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中日・高木守道が“涙の謝罪”「長嶋さん、申し訳ありません…」長嶋茂雄“あの引退試合”ウラ側…元フジテレビアナが見た「長嶋さんの予想外だった行動」
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生島淳Jun Ikushima
photograph byKYODO
posted2025/06/19 11:01
1974年10月14日、引退セレモニーで涙を拭う巨人・長嶋茂雄(当時38歳)
「この日は中日戦でした。実はこの日、リーグ優勝を決めていた中日は名古屋で優勝パレードがあって、主力選手が出場できなかった。そこでのちに監督も務めた中日の高木守道が、電話で泣きながら『本当に申し訳ありません』と長嶋さんに謝ったというんです」
この日、岩佐さんは後楽園球場のスタンドにいた。
「当時の後楽園にはフジテレビの記者席がなくて、観客席に2席だけ記者用に確保した年間シートがありました。『この試合だけは行かないわけにはいかない』と思って、後輩アナの松倉悦郎とふたりで行きました。この日はダブルヘッダーで、第1試合で長嶋さんがレフトへライナーのホームランを打った。あの弾道は忘れられません。そして、第1試合と第2試合の間に忘れられないことが起きました」
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予告もなく、長嶋がグラウンドを一周し始めたのだ。
「最初は手を振りながら、笑顔も見えました。ところが、センターを過ぎたあたりで体がぐらっと傾くと、長嶋さんが泣き始めた。花束を持ちながら、白いタオルで涙をぬぐっているのが分かりました。それを見た観客も、みんな泣き始めたんです。1974年10月14日、あの日だけは、いい大人が人目もはばからず涙を流した日です。もちろん、私も泣きました。長嶋さんとはそれほど親しかったわけではないのに、あんなに泣いた経験はありません。松倉には見られないように、横を向きながら」
忘れられない「ショート広岡の“苦い顔”」
長嶋は翌年から川上哲治に代わって巨人軍の監督となり、岩佐さんは1976年から始まった第二期「プロ野球ニュース」を担当し、1978年から4年間、フジテレビで始まった大リーグ中継を担当することになる(私は岩佐さんの実況で育ったようなものだ。メジャーリーグに、これだけコミットしたアナウンサーは日本人ではいない)。
4年間、現地で実況を担当した岩佐さんに、「長嶋茂雄と王貞治はメジャーリーグでも活躍できたのか?」という質問をぶつけてみた。
「王さんはある程度、結果を残せたはずです。持って生まれた体の強さ、打席での選球眼、長打力は通用したでしょう。王さんはどうしても打撃に目を奪われがちですが、守備力も優れていました。当時のアメリカの一塁手で上手な選手はあまり見ませんでしたから(笑)、王さんの守備は重宝されたはずです。ただ、アメリカで王さんの話題になると、『投手は、どうしてあの左足を攻めないんだ?』と必ず質問されました。一本足打法の左足は無防備な状態だから、足元のあたりを攻めれば、打てないだろう――というのがメジャーの発想です」
さて、長嶋はどうだろう?


