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15歳プロ契約→27歳で異例の引退「100%出せないならプロ失格だと…」“早熟の天才MF”がいま明かす浦和での後悔「僕に柔軟性が足りなかった」
posted2025/03/17 06:01

Jリーグ初の“レンタル選手”として浦和レッズに加入した菊原志郎。1994年から2シーズンにわたって在籍した
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杉園昌之Masayuki Sugizono
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J.LEAGUE
Jリーグ元年。何もかも変わった。華やかに開幕したプロリーグがスタートすると、読売クラブ時代から奔放に攻撃することを許されてきた23歳の菊原志郎は戸惑いを覚えた。
Jリーグ発足の1993年から指導体制が刷新。OBの松木安太郎監督を据えながらも、実質、チーム作りを進めたのはオランダ人ヘッドコーチのフランツ・ファン・バルコムである。計3人のオランダ人選手が加わり、ブラジル路線から欧州路線へ。求められたのはスタイルよりも結果。勝利から逆算した戦術が採用され、選手起用の基準も変わった。
チームで突出した存在のラモスらは別だったかもしれないが、若手のアタッカーたちにはテクニックと同時にフィジカル能力、守備の強度が要求されたという。天才少年と呼ばれた菊原も例外ではない。
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「いままでは読売のサッカーをすることにこだわってきたので……。リズムが違うというか、対応するのは難しかったです。僕自身、守備面では弱さがありましたし、ポジションがビスマルク(93年の第2ステージから加入)と重なっていたこともあります。たとえ、練習でいいプレーを見せても、試合に出る機会はほとんどなくて、キャリアで一番難しい状況でした。僕は変わりゆく時代の流れに乗れなかったのかもしれません」
華々しいJリーグ開幕の裏で…
Jリーグ1年目の93年は、6試合に出場したのみ。公式戦から遠ざかれば、当然、ゲーム感覚が鈍ってしまう。ポジションの近いチームメイトともイメージを共有できず、思いどおりのプレーも見せられない。理想と現実の折り合いがつかないまま、一人で葛藤した。Jリーグブームで連日、よみうりランドには大勢のファン・サポーターが詰めかけるなか、ひたすら己を信じてボールを蹴り続けていた。
「僕なりに良いプレーを見せて、自分を認めてもらうしかないと思っていました」
90年代前半、絶大な人気を誇ったヴェルディ川崎では十分なサラリーを手にしていたが、充実感を覚えることはできなかった。