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15歳プロ契約→27歳で異例の引退「100%出せないならプロ失格だと…」“早熟の天才MF”がいま明かす浦和での後悔「僕に柔軟性が足りなかった」
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杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byJ.LEAGUE
posted2025/03/17 06:01

Jリーグ初の“レンタル選手”として浦和レッズに加入した菊原志郎。1994年から2シーズンにわたって在籍した
ぽっかり穴が空いた心を満たすためにはどうするべきか――自ずと答えは出た。小学校4年生から育ってきた思い入れのあるクラブを一度離れるしかない。
日本代表に初めて招集してくれた横山謙三監督から熱心な誘いを受け、苦渋の決断を下す。Jリーグ初年度のシーズンで最下位の浦和レッズへ。まだ選手の移動が活発ではない時期である。国内レンタル移籍の“第1号”となった。
「ヴェルディで自分を表現できない以上、他のチームで自分を見せないといけないなって。やっぱり、試合に出たかったんです。でも、今度はサッカーのスタイルの違いで苦しむことになりました。当時のヴェルディとレッズのスタイルは正反対。しっかり守ってカウンターを中心に得点を狙う感じでしたから。イメージ、タイミングが合う選手は福田正博さんなど数人でしたね。連係を取るのは難しかったです」
ドイツで手術も…「期待に応えられなかった」
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さらに追い打ちをかけたのはケガである。リーグ開幕まであと2週間に迫ったプレシーズン。ベルマーレ平塚との試合で相手選手に足を踏まれて、足首を捻挫してしまう。重傷ではなかったため、無理をして試合に出たのが裏目に出る。負傷した箇所をかばい、次は右の股関節を痛めてしまったのだ。
「僕はドリブルのキレ、瞬間的な速さで持ち味を出すタイプだったのに、それを出せなくなって……」
開幕戦の1試合に出場し、そこから約半年にわたって欠場。日本で治療しても一向に回復せず、夏にドイツで手術することに。復帰したのはシーズン終盤だった。結局、94年は8試合の出場にとどまっている。レンタル2年目を迎えた95年シーズンは、ホルガー・オジェック監督の構想に入っていなかった。7人で守り、福田、岡野雅行、ウーベ・バインの3人で素早く攻めるスタイルに菊原はなじめず、ピッチに立ったのは1試合のみ。大宮に住んでいたレッズ時代の思い出はほろ苦い。
「僕を呼んでくれた横山さん、期待してくれたクラブ関係者の皆さん、そして熱心に応援してくれていたファン・サポーターの人たちの気持ちに応えられなかったのはとても残念でしたし、悔いも残っています」
2年に及ぶレンタル期間を終えた頃、26歳になっていた。年齢を重ね、指導者の経験を長く積んだからこそ、あらためて思うことがある。
「本当は僕のほうがもっとレッズのサッカーに合わせて、フィットさせないといけなかったんでしょうね。あの頃は、自分の良さを出さないといけないと強く思い過ぎていました。ヴェルディでやっていたようなプレーを求められていると思い込んでいたんです。レッズのサッカーを理解し、少しずつ自分を出していけば、良かったのかもしれませんね。僕に柔軟性が足りなかったと思います」