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「父親が酒浸りになって」一家離散の問題児が“J屈指+ブラジル代表ボランチ”に…サンパイオの逆転人生「ドゥンガは大恩人だ」

posted2023/07/30 11:00

 
「父親が酒浸りになって」一家離散の問題児が“J屈指+ブラジル代表ボランチ”に…サンパイオの逆転人生「ドゥンガは大恩人だ」<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

横浜フリューゲルスなどで名ボランチとして君臨したサンパイオ。彼が歩んだ人生は壮絶そのものだった

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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Hiroaki Sawada

 30周年を迎えたJリーグの軌跡に刻まれたブラジル人選手。彼らに当時のウラ話、そして引退後の今を聞いていく。今回は横浜フリューゲルス、柏レイソル、サンフレッチェ広島で活躍したセザール・サンパイオ。1998年フランスW杯でブラジル代表のボランチを務めた名手だが、幼少期は“壮絶な人生”を送っていた。さらに師匠と慕うドゥンガや日本への愛を、貴重な写真とともに余すことなく語ってくれた。《全3回の1回目/#2#3につづく》

 ブラジルは、笑顔溢れる国だ。道を歩いていても、乗り物に乗っていても、多くの笑顔に出会うことができる。そんな国でも、これほど優しく、人を包み込むような微笑みをみせてくれる男はなかなかいない。

 カルロス・セザール・サンパイオ・カンポス、通称セザ-ル・サンパイオ。ボランチとして中盤の強固な防波堤となり、機を見て攻撃にも参加して、クラブでも代表でも貴重なゴールをあげた。

 サントスFCのアカデミーで育ち、パルメイラスでブラジルリーグ連覇に貢献した。1995年から98年まで、横浜フリューゲルスで中心選手として活躍。スペインでプレーした後、柏レイソル、サンフレッチェ広島にも在籍した。

 セレソン(ブラジル代表)の一員として1998年ワールドカップ(W杯)フランス大会に出場し、スコットランド戦で大会ファーストゴールを決めるなどボランチながら3得点。決勝で地元フランスに屈したものの、準優勝を果たした。

 そんな彼を訪ねて、じっくりと半生を聞いた。

最初は右ウイングをやっていたんだけど

――出身はサンパウロですね。

「市の南部で生まれた。父は郵便配達員で、母は他の家の注文に応じて服を作る裁縫師だった。4人きょうだいの次男で、上から3番目。子供たちの服はすべて母が作ったから、店で服を買ってもらったことがない(笑)。 決して裕福な家庭ではなかった」

――ボールを蹴り始めたのはいつ頃?

「5、6歳で、ストリートや広場でボールを蹴り始めた。 7歳のとき、地域のスポーツ少年団に入り、ハンドボール、バスケットボール、水泳など色々なスポーツを楽しんだ。その中で、夢中になったのがフットボール。幸運にも、サントスFCでペレと共に黄金時代を築き、セレソンにも選ばれたリマという元名MFから指導を受けることができた」

――当時の憧れの選手は?

「ジョルジ・メンドンサというパルメイラスのアタッカー。素晴らしいテクニックの持ち主で、実にエレガントにパスを出し、ゴールを決めていた。家族はみんなコリンチャンス・ファンだったけど、彼のせいで僕だけ宿敵パルメイラスのファンだった(笑)」

――当時からボランチだったのですか?

「いや、最初は右ウイングをやっていた。点を取るのが楽しいからね。でも、ある日、リマから『ボランチをやってみないか。君の資質をもっと生かせると思うぞ』と言われた。あまり気が進まなかったが、やってみたらうまくプレーできて、リマに誉めてもらえた。以来、ずっとボランチだ」

父親が酒浸りになって収入が途絶え、家を追い出された

――その頃からプロ選手を目指していたのですか?

「漠然と目指してはいたが、ある出来事がきっかけで『絶対にプロ選手になる』と思うようになった。

【次ページ】 勉強が嫌いな問題児だったんだ

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