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巨人FA移籍「落合vs清原」騒動…落合博満が清原和博にダメ出しした日「高校時代のほうがよかったな」清原の告白「西武では孤立していた」
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中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2025/01/31 11:05
1988年の日本シリーズ。西武・清原和博が出塁し、中日・落合博満と談笑する
監督の東尾にはシビアな決断が求められた。西武の将来のために、誰よりも可愛がった清原を外した新チームを作るという決断である。
同時に巨人という注目を集める環境で、師匠と慕う落合のもとでならアイツは復活するのではないか……。東尾にはそんな親心もあった。豪快そうに見えて、繊細な一面を持つ清原は当然、自身の置かれた立場や東尾の苦悩には気付いていた。
「東尾さんには現役時代から可愛がってもらいました。(中略)だから、優勝するための力になりたかったんです。でも台頭してきた若手とは年も離れていて、みんなが僕に気を使って、孤立しているような雰囲気でした。それで、このままいると迷惑をかけるのではないか、自分が出て行った方が東尾さんもやりやすいんじゃないかと……。僕はチームリーダーになって、みんなを引っ張れる人間じゃないので」(告白/清原和博/文藝春秋)
“落合vs清原”騒動へ
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球団との駆け引きで巨額の年俸を引き出すこともせず、ロッカールームの派閥作りに走るわけでもない。ある意味、清原は一本気な男だった。子どもの頃から巨人に憧れる一方で、尊敬する落合の打撃をプロ入り以来ずっと追いかけていたのだ。オフにチャリティーゴルフで顔を合わせると、ラウンド後の風呂で落合の背中を流し、素っ裸のまま打撃の指導を請い、互いに熱中するあまりパーティーの時間を忘れてしまったこともあったという。ついに手にしたFA権で、その落合のいる巨人へ行けるチャンスが目の前にある。
しかし、運命は残酷だった。清原は前年の右肩亜脱臼の影響で一塁以外守れず、セ・リーグにDH制度はない。それは、巨人入りすれば、師匠の落合とひとつしかないポジションを争うことを意味していた。仮に勝ったとしても、結果的に自分の移籍がオレ流の居場所を奪う形になるだろう。
1996年10月27日、ついにミスターレオは西武球団にFA申請書を提出。だが、喧噪の中、巨人軍と落合博満の狭間で、29歳の清原は苦悩する――。
<続く>
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