近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
「野茂があんなに笑うなんて」野茂英雄がアメリカで初めて見せた表情…優勝決定の直前、“あの名医”が姿を現し「球速が約20キロ上がった」記者の証言
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2024/07/11 11:05
高校、社会人、そしてプロ野球でも優勝経験のなかった野茂英雄。ドジャースの地区優勝を目前にした1995年夏に起きていたのは…
「僕も、日本でいろいろな“外国人選手”と知り合いだったからね。野茂君の気持ちはよく分かるんだ」(ザ・デストロイヤー)
「テレビでよく、見てました(苦笑)」(野茂)
こんな番外エピソードも、もれなく原稿になった。
不調でまわってきたマジック「1」での先発
ロッキーズとの3試合は、ドジャースの2勝1敗。シーズン残り3試合で首位を奪回したドジャースの最短優勝は「9月30日」のパドレス戦となった。
この試合の先発予定には「NOMO」と記されていた。
先に書いたように、ロッキーズ戦の先発を回避、というより、不調ではく奪され、その前の24日に登板したことで、中5日での30日にスライドしての先発だった。その前日となる29日、ドジャースは5-2でリードした8回に、4点を失って逆転負け。しかし、ロッキーズもお付き合いでの敗戦。優勝マジックは「1」となり、まさしく優勝をかけたその大事な一戦に、野茂が先発マウンドを担うことになったのだ。
災い転じて、というのは、妥当な言葉ではないかもしれない。しかし、これも巡り合わせなのだろう。1995年、日米に「トルネード旋風」を巻き起こしたその張本人が、激動のシーズンを最高のエンディングで締めくくるべく、その大一番のマウンドに立つ。
あまりにも出来すぎたシナリオだ。野球の神様は、きっとアメリカにもいるのだろう。
世界的名医・ジョーブ博士に直撃すると…
その敵地・サンディエゴでの試合前、私は思いも寄らぬ人物に出くわした。
フランク・ジョーブ博士だ。側副靭帯再建術、いわゆる「トミー・ジョン手術」の権威でもある。野茂のパフォーマンスが落ちてきた頃から、ロスの地元紙の記事には当たり前のように「野茂の右肘痛」というフレーズが差し込まれ、ジョーブ博士の診察を受けたとも伝えていた。しかし、話をしたこともない権威ある医師の名前を自分の原稿に軽々しく出せるわけがない。
その人が、目の前にいた。私は、咄嗟にジョーブ博士を追いかけ、背中に向かって「プロフェッサー、ジョーブ」と呼び掛けていた。
穏やかな表情で、振り向いてくれた。
「野茂の右肘は、大丈夫ですか!?」
必死の形相の日本人記者に、ジョーブ博士は笑みを浮かべながら、こう答えた。