近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
「野茂があんなに笑うなんて」野茂英雄がアメリカで初めて見せた表情…優勝決定の直前、“あの名医”が姿を現し「球速が約20キロ上がった」記者の証言
posted2024/07/11 11:05
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
Koji Asakura
1995年、ドジャースの地区優勝が目前に迫る中、サンケイスポーツ大阪本社からアメリカに派遣されていた20代の若手記者に上司から質問という名の取材指令が舞い込む。「ドジャースの優勝旅行、どこなんや?」(全14回の第13回/初回から読む)
メジャーで優勝旅行はあるのか? 聞くと…
とにかく場所さえ分かれば、それこそ「野茂、優勝したらハワイで豪遊」といった見出しを立て、1面を飾れるという皮算用である。
当時のドジャース副代表、フレッド・クレアは、よく日本人記者のちょっとした雑談にも付き合ってくれる、とても気さくな方だった。
「日本では、そういう旅行があるのかい?」
クレアはこちらの質問の「優勝旅行」という聞き慣れないフレーズに、戸惑いの色を見せた。
「伝統としては、ディナーを盛大にやることくらいかな。日本のようにツアーを組んだりしないよ。まあ、ワールドシリーズでも勝ったのなら、そういうことを考えてみてもいいかもしれないね」
そうか、V旅行はないのか。でも、ひょっとしたら“世界一のご褒美”はあるかもしれないのか。これは、いいネタだな。野茂に反応を聞ければ、1面でもいけるだろう。
日々、原稿を乗り切る算段を立てなければならなかった当時の窮状をお察しください。
パンチョ伊東に呼び止められて…
クレアに直撃取材を行った、その翌日のことだった。
メジャー通として、その名をはせたパンチョ伊東も当時、ドジャースの取材に帯同していた。パ・リーグの広報部長を務め、ドラフト会議での指名選手を読み上げる名調子で知られた伊東は、どの球場に行っても、必ずその球団の関係者や選手たちと親しく談笑する姿があった。その豊富な人脈も、メジャーへの造詣も、恐らく当時の日本球界やマスコミの中で、この人に勝る人はいなかっただろう。
そのパンチョに、ドジャースタジアムで呼び止められた。