近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
「野茂があんなに笑うなんて」野茂英雄がアメリカで初めて見せた表情…優勝決定の直前、“あの名医”が姿を現し「球速が約20キロ上がった」記者の証言
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2024/07/11 11:05
高校、社会人、そしてプロ野球でも優勝経験のなかった野茂英雄。ドジャースの地区優勝を目前にした1995年夏に起きていたのは…
「きょうは、彼のピッチングを見に来たんだ。彼を見たかい? いい顔色だっただろ」
タイトルなんかより、とにかく優勝したい
軽くいなされた。そりゃ、そうだろう。肘の検査をしただとか、痛み止めの注射を打っただとか、そんな個人情報を漏らすわけがない。ただ関係者を取材してみると、ジョーブ博士がサンディエゴへ来訪したのは、ドジャースからの要請だったという。
おそらく、右肘には何らかの異常があったのだろう。痛かったのか、張りがあったのか。注射を打ったか、痛み止めを飲んだか。しかしもう、そのあたりの真偽はこの際、どうでもよかった。それでも、きっと、野茂は「投げる」と決めていたのだろう。腕が折れても、肘が飛ぼうと、投げるつもりだったのだろう。
大阪・成城工高、社会人の新日鉄堺、そして近鉄。日本での野球人生で、数々の栄光を成し遂げながら、チームの「優勝」だけには縁がなかった。社会人時代に出場したソウル五輪でも銀メダル。プロ1年目から投手のタイトルを総ナメにしてきた野茂だったが、いつしか口癖のようにこう語るようになった。
「ボクは、優勝にこだわりたいんです。タイトルなんかより、とにかく優勝したいんです」
俺が勝てば、優勝できるんだ――。舞台は整った。
野茂のいるチームは優勝できないという声も
敵地・サンディエゴでの大一番。野茂は最初から飛ばした。つい10日ほど前のジャイアンツ戦で、70マイル台後半しか出ていなかったストレートは、93マイル(150キロ)をマークし、8回まで被安打6の2失点に毎回の11奪三振。力強さと、落差のあるフォークのコンビネーションは、野茂らしさが全開だった。
9回のマウンドは守護神のトッド・ウォーレルが締め、7-2の快勝を収めた。
ドジャース、7年ぶりの地区優勝――。
独自の調整法や、自らをきっちりと主張する野茂は、当時の日本球界では「わがまま」と捉えられることも多かった。チームの和を乱すとばかりに「だから、野茂のいるチームは優勝できない」とまで言われ、根拠のない印象論からの“断言”すら、世間にまかり通っていたような時代だった。
私にヒデオ・ノモをくれて、どうもありがとう
だから、嬉しかった。野茂があんなに笑顔を浮かべ、チームメートたちと代わる代わる抱き合って、喜びを爆発させる姿など、私は初めて見た。