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「63歳の今もダンディー…」“ジーコ、マラドーナの盟友FW”カレッカが「私のキャリアで最も美しい」と語った“W杯史に残るゴラッソ”とは
posted2023/12/03 17:02
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Colorsport/AFLO
ブラジル、イタリア、日本で活躍した世界的ストライカーのカレッカは、サンパウロ州内陸地で生まれ育った。今もなお現役時代のような均整の取れた63歳に、生い立ちや知られざるキャリアを聞いた。
母親は堅い仕事についてほしかったようだが
――生まれは、サンパウロ州の中都市アララクアラですね。お父さんもプロ選手だったとか。
「父はサントス郊外で生まれた。フットボールが大好きで、プロになってサンパウロ州各地のクラブでプレーした。小柄な左ウイングで、スピードが自慢。バウルー(注:サンパウロ州奥地の中都市)のBACというクラブで、ペレの父ドンジーニョ(注:長身のCFだった)とチームメイトだったそうだ。当時、まだ幼かったペレとも会っている。その後、ペレがサントスFCで偉大な選手になり、ペレとサントスFCの大ファンになった。父の影響で、家族全員がサントスファンになった」
――きょうだいは?
「5歳上の兄と私の2人。兄もプロ選手を目指したが、途中でテニスに転向して、プロテニス選手になった」
――ボールを蹴り始めたのは?
「6歳のとき、アララクアラのアマチュアチームに入った。当時はMFだった」
――もうこの頃からプロ選手を目指していたのですか?
「9歳のとき、1970年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会があった。セレソン(ブラジル代表)がペレ、トスタン、ジャイルジーニョ、リベリーノらが織りなす華麗な攻撃で通算3度目の優勝を遂げ、その姿に魅了された。以来、『自分もプロ選手になりたい』と思うようになった」
――そんなあなたに対して、ご両親の意見は?
「父親は賛成で、『プロの世界は厳しいが、よく練習して立派な選手になれ』と言ってくれた。でも、母親は大学へ行って弁護士、エンジニアといった堅い職業に就いてほしかったようだ。今と違って選手の収入は少なかったし、世間的にも『遊びを仕事にしている怠け者』というイメージがあったからね」
ブラジル王者となって天にも昇るような気分に
――ポジションは、その後もずっとMF?
「13歳のとき、チームの監督の勧めでCFをやることになった。でも、最初は嫌だった」
――なぜですか?
「マーカーを背負ってプレーするより、いつも前を向いてプレーしたかった。でも、次第にゴールを奪う喜びに目覚めていった」
――15歳でグアラニー(注:カンピーナスに本拠を置く中堅クラブ)のアカデミーに入団したのですね。