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「63歳の今もダンディー…」“ジーコ、マラドーナの盟友FW”カレッカが「私のキャリアで最も美しい」と語った“W杯史に残るゴラッソ”とは
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byColorsport/AFLO
posted2023/12/03 17:02
ブラジル代表時代のカレッカ。63歳となった今も均整の取れたダンディーさだった
「そうなのかい。あれは、私のキャリアで最も美しいゴールの一つだった」
――しかし、前半終了間際にプラティニの得点で追いつかれます。後半途中からピッチに立ったジーコが、最初のプレーでPKを演出。ところが、ジーコがまさかのPK失敗。その後、両チームが素晴らしい攻防を繰り広げましたが、90分を終えても同点。延長、PK戦の末、セレソンが敗退しました。
「大会前の1年間、ジーコは度重なる故障で治療とリハビリの連続。それでも、歯を食いしばってこの大会のために頑張っていた。チームのPKキッカーはソクラテスだったが、ソクラテスがジーコに譲ったのは『苦労を重ねてきたジーコに点を取らせてやりたい』という我々チームメイトの総意でもあった。
フットボールは美しいスポーツだが、極めて残酷な一面もある。試合内容では、我々が上回っていた。本当に残念な敗退だった」
レイソルから退団後、どんな人生を送ったのか
――その後、ナポリでマラドーナと一緒にプレーする喜びを味わいますが、セレソンでは1990年W杯準々決勝で率いるアルゼンチンと対戦し、親友マラドーナのスルーパスから失点して敗退します。とはいえ、あなたはW杯2大会で9試合に出場して7得点という素晴らしい結果を残しました。
「我々は1986年、1990年のいずれのW杯でも優勝に値する力があったと思う。個人としては悪くない数字を残せたが、優勝できなければ意味がない。残念だった」
――その後、1993年後半から1996年末まで柏レイソルに在籍。1997年前半はサントスでプレーしました。
「私がサントスでプレーするのは、大のサントスファンだった父の夢だった。父に頼まれて入団し、半年だけプレーした」
――1998年にはカンピーナスに総合スポーツ施設「カレッカ・スポーツセンター」を建設。同時に新クラブ、カンピーナスFCを立ち上げます。
「カレッカ・スポーツセンターでは当初、日本、韓国、中国からのフットボール留学生を受け入れ、私も指導に当たった。カンピーナスFCでは、1998年に短期間プレーし、その後、監督を務めた。州5部から始めて州2部まで昇格したが、運営に多額の経費がかかることから、2010年に譲渡した。
カレッカ・スポーツセンターは引き続き運営しており、フットボール、ゴルフ、テニス、水泳などを楽しむことができる。各種イベントを行なう施設もある。また、ブラジルやイタリアのテレビで試合の解説者を務めることもある」
――指導者としてのキャリアを積むことは考えなかったのですか?
「カンピーナスFCで監督をやってみて、なかなか面白かった。でも、その後、どこからもオファーが来ないので諦めたんだ(笑)」
1986年W杯で強烈な光を放ち、イタリア・セリエAであのマラドーナと一世を風靡した男は、63歳となった今も実にダンディーだった。歯に衣着せず、思ったことを全く躊躇することなく話す。この点はマラドーナとそっくりだ。
フットボールと人生に対する考え方が、まるで兄弟のように似ていた。だからこそ、第1回でカレッカ本人が語ったように――2人は唯一無二の親友となったのだろう。