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なぜ柏木陽介は「調子乗り世代」と呼ばれて怒ったのか? 高校時代から記者にタメ口、赤髪モヒカン槙野智章と名コンビ…“愛された太陽”の素顔
posted2023/11/09 17:00
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
YUTAKA/AFLO SPORT
また1人の名手がスパイクを脱ぐ決断を下した。11月、FC岐阜MF柏木陽介(35歳)が現役引退を発表した。
「暗い表情してやるより、楽しそうな表情をしてやったほうがいいじゃない? もちろんヘラヘラしているわけではなく、チームがしんどい時こそ走るし、チームのためにやるけど、どうせやるならチームを明るくしたいよね」
これは柏木が20歳の頃の言葉だ。クリエイティブなプレースタイルで“天才”と評されることも多かったが、その一方で底抜けに明るい陽気なキャラクターを持ち合わせていた異質な司令塔だった。今となってはこの言葉が彼のプロ18年の歩みを象徴していたように思う。
兵庫から広島へ「オカンのように強くなる」
1987年、兵庫県生まれ。親元を離れてサンフレッチェ広島ユースに加入。正確な左足のボールコントロールを武器にセレクションを突破し、ゲームを組み立てる存在になれる期待された。しかし、当初は育成年代で隆盛を築いていた広島ユースの分厚い壁にぶち当たった。当時のチームには1学年上に高萩洋次郎、2学年上に高柳一誠や田坂祐介と、後にJリーグで活躍するボランチが揃っており、なかなか出番をつかめないでいた。
「自信がないんです。ここで自分が通用するのか」
槙野智章といったジュニアユース時代から名を馳せていた昇格組の同期たちとも異なり、中学時代は全くの無名の存在。周りのレベルに戸惑い、そんな本音を漏らすこともあった。それでも「覚悟をもって兵庫からここ(広島)に来たんです。ダメでしたでは終われない気持ちです」と負けん気を発揮できたのは、女手一つで3兄妹を育ててくれた母親への思いがあったからだ。3人兄妹の次男として育った柏木は、10代の頃から母へ感謝を言葉にしていた。
「オカンはいろいろ苦しかったはずなのに、その苦しい部分を全く見せないし、とにかく明るいんだよね。僕ら子供たちのために全力で愛情を注いでくれたし、朝から夜遅くまで働いて疲れていたにもかかわらず、自分のことよりも子供たちのことを第一に考えてくれている。本当に凄いよね」
「オカンのように強くなりたい」――常に明るく振る舞う母の姿が柏木少年のベースを作り出していく。