“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
なぜ柏木陽介は「調子乗り世代」と呼ばれて怒ったのか? 高校時代から記者にタメ口、赤髪モヒカン槙野智章と名コンビ…“愛された太陽”の素顔
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byYUTAKA/AFLO SPORT
posted2023/11/09 17:00
盟友・槙野智章(右)らとU-20W杯に出場した当時20歳の柏木陽介(2007年)。来月で36歳、今シーズン限りでの現役引退を発表した
柏木が頭角を現した高2の頃、その明るいキャラクターはチームの中心にあった。どんな場面でも楽しそうにボールを追いかけ、チームが失点してもすぐに声を出す。ミスに絡んだ味方に真っ先に声をかける姿は何度も見た。
取材をしていてもとても楽しい選手だった。高校時代から受け答えはいわゆる“タメ口”に近かったが、フラットな目線で話してくれていることが伝わっていたから一度も嫌味に感じたことはない。そこに幸い、槙野という最高のパートナーを得たことも手伝い、すぐに世代を代表するキャラクターへと成長していくのだった。
号泣謝罪「ごめん、俺のせいだ!」
技術もメキメキと進化を見せ、将来を期待する声が大きくなる一方で、筆者が驚かされたのは“献身性”を身につけていったことだ。育成年代に天才と持てはやされる選手の多くは守備面で手を抜くシーンが目立つ。だが、柏木はどんな試合でもチームのために積極的にボールを奪い、そして後方からどんどん前に出て攻撃にも絡んでいった。
象徴するシーンとして、高3夏の日本クラブユース選手権がある。大会2連覇中で優勝候補と謳われた広島ユースは、1勝も挙げられぬまま、まさかのグループリーグ敗退を喫した。誰よりも責任を痛感したのが柏木だった。
もっと身体を張っていれば。自分が試合を決定づけていれば。グラウンドに膝から崩れ落ち、何度も「ごめん、俺のせいだ! 全部俺のせいだ」と叫び、立ち上がれないほど号泣した。
仲間から抱き抱えられるようにピッチを後にした姿は、いつもの陽気な姿とはまるで別人だった。しかし、ここまで“チーム”を背負える姿に、日本の未来を託せるかもしれないと感じた日を今も鮮明に覚えている。
柏木の名が全国に知れ渡ったのは、世代別日本代表での活躍だ。ボランチとしてだけではなく、サイドハーフなど複数のポジションをこなした柏木は、この世代の中核を担っていた。
彼らに最初に大きなスポットライトが当たったのが、2007年にカナダで行われたU-20W杯だろう。この時のアシスタントコーチには現在の日本代表を率いる森保一監督がいた。