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「誰も挨拶にこない」ボヤく野村克也に江本孟紀が直言「そりゃ来まへんで、あんた嫌われてるのに」非難・称賛を越えた“本当のノムラ論”
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/01/17 11:02
交友歴48年に及ぶエモやんが“ノムさんへの複雑な感情”をありのまま解き放つ
「あの人は転んでもタダでは起きない」
野村は1990年ヤクルトの監督に就任。Bクラスの常連だったチームを9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。
「野村さんはヤクルトで『ID野球』を打ち出して、世間に“名将・野村”というイメージが広がった。ただね、良い選手がたくさんいたんですよ。広沢(克己)とか池山(隆寛)とか、前の監督だった関根(潤三)さんが育てていましたから。それに、あの人は『弱いチームを強くさせる』を売りにしていたけど、チーム力がない時は負けてるんですよ」
ヤクルトを退団したオフ、久万俊二郎オーナーに請われて阪神タイガースの監督に就任したが、3年連続最下位と結果は残せなかった。
「『選手が言うことを聞かない』とボヤいてましたよ。ただね、あの人は転んでもタダでは起きない。阪神は野村さんが来てめちゃくちゃ儲かったんですよ。お客さんがものすごく増えたし、阪神百貨店が100万円の野村人形(純金製のノムさん像)を作ったら20個以上売れましたからね。そんなバカみたいな話が本当にあった。阪神は大物の監督を持ってきたら、旨味があるとわかった。だからその後も星野(仙一)さん、岡田(彰布)、真弓(明信)と人気者を持ってきた」
野村監督就任の1999年、阪神は最下位ながらも観客動員は260万1000人となり、5年ぶりにリーグ2位に返り咲く。その数字は日本一の1985年と比べて1000人少ないだけだった(いずれも公称)。以降、コロナ禍で入場制限されるまで年間200万人以上を維持した。
沙知代氏の脱税もあって野村は阪神を追われ、2003年から社会人野球『シダックス』の監督に就任。2006年には創設2年目の楽天イーグルスの監督としてNPBに復帰した。
「楽天の1年目も最下位でしょ。(阪神の時から)4年連続最下位で監督をやり続けたのが凄いなと。それも、全てオーナーのせいにしてね。『星野(仙一)の時は補強してくれたのに、俺の時は何もしてくれなかった』と言うけど、『弱いチームを強くさせる』という触れ込みと違うじゃないかって。それでも楽天からオファーが来るんですから、(名将と思わせるような)押しが強いんでしょうね」