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「桑田コイコイ」KKドラフト前に早スポが報じた幻のスクープ! PL学園・桑田真澄の独占取材と早大進学取りやめ→巨人入団の真相とは
posted2022/11/08 06:21
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
1985年11月20日。
PL学園の桑田真澄と清原和博の運命のドラフト会議の日だ。事前の予想とは全く違った指名になって、二人の入団するチームが衝撃的に決定した。
早くから早稲田大学進学が取りざたされた桑田が急転して巨人から単独1位指名を受けた。密約も噂されたりしたが、いったいあのドラフトに何があったのか。カギを握っていたのは誰なのか。
筆者は早稲田大学の学生として、多少なりとも関わったので、37年経っても真相を知りたいと思う。
早大進学から巨人入りへ…PL桑田の気持ちの変化とは?
早稲田大学野球部は当時、東大に完封負けするほど弱く、前後7年間(1983年〜91年)も優勝から遠ざかる只中にあった。野球部を応援する学生たちはだれか救世主が現れて欲しい、と願っていた。そこにPL学園の桑田が受験する、という先行報道があって、期待は大きく膨らんでいた、と言っていい。
ところが、ドラフト会議で巨人が1位指名し、その3日後、桑田は上京する。早大受験の願書提出と思われたが、巨人入りを表明する記者会見を開いた。早稲田の学生にとって、希望から落胆を味わう秋だったのだ。
ドラフト会議から2カ月前の9月21日。桑田は神宮球場で「早大対東大」の試合を観戦している。入学を見据えて高校生球児が大学野球観戦をするのは珍しくない。
早稲田が負けたこの日のゲームは桑田の気持ちに変化を与えたのか……。
「早大対東大」を観戦した当時の桑田の状況
7月に発売された『虚空の人 清原和博を巡る旅』(鈴木忠平著)は清原と彼を取り巻く人の人間模様を描いたノンフィクションだが、第二章「怪物」の項の中で、桑田が巨人入りに傾いた要因の一つとして、「早大対東大」の試合観戦の状況を記している。
まず、その部分を引用する。
***
ところがその日、桑田の目の前で早稲田は敗れた。東大を相手に1点も奪うことができなかった。白地のユニフォームも、緑と青に彩られた球場も、どこか色褪せて見えた。桑田は秋風に吹かれながらグラウンドをじっと見つめていた。
滝口(※注・PL学園のチームメイト)は俯く早稲田ナインとPL学園のエースとの間のギャップを感じていた。桑田は甲子園で並ぶもののいない投手だった。大学、社会人は高校よりレベルが上がるとはいえ、もはや、アマチュアで投げるような投手ではないような気がしていた。その違和感が早稲田の惨敗を見たあとではより鮮明になった。
後日、寮に戻ってから桑田はふと呟いた。
「あれがおれの思っていた早稲田なんかな……」
それまでとは明らかにトーンが違っていた。
あの神宮での試合の後、桑田と滝口ら数人は球場に隣接するパーラーで喉を潤すことにした。沈んだ空気のまま、言葉少なにテーブルについていると、そこへ早稲田スポーツ新聞会の学生たちがやってきた。スタンドで桑田の姿を見つけて、追いかけてきたのだという。