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<独占インタビュー>「治療は家族にとって大きな負担だった」メッシが明かす“ホルモン分泌異常”と13歳での故郷との別れ
text by
フランス・フットボール誌France Football
photograph byL’Équipe
posted2021/12/15 17:00
獲得した7つのトロフィを前に笑顔のメッシ。インタビューでは、ありのままに心境を語った
「なかったね。それまでしてきたことすべてを続けることができた。もちろん治療は続けながらだけれども、それ自体が日常になり僕の生活の一部になった。友だちの家に遊びに行くときも、薬と注射器を持って行った。低温での保存が必要であれば、友人の家につくなり冷蔵庫に保存した。誰もが夜に僕が注射しなければならないことを分かっていた。だから難しいことは何もなかった。自分で治療を始めたら、それは直ちに僕のルーティーンになった」
――しかし2000年には、その治療費を社会保障なしに家族が支払い続けるのが難しくなりました。アルゼンチンを離れてバルセロナでの成功に賭けるわけですが、ロサリオを去って家族や友人たちと13歳で別れねばならないことをどう受け止めましたか?
「治療は家族にとって大きな負担だった」
「治療は続けていたけど、家族にとって大きな負担だった。父が仕事場で(相互扶助組織の)公的な援助を受けていたにしてもだ。だがそれも最後は打ち切られた。いろいろ事情があって……。そこからバルセロナ行きが浮上した。生まれ育った街を離れたときのことはよく覚えている。僕らはそこで人生のすべてを過ごしてきた。その街と友人たち、近しい人たちに別れを告げねばならなかったのだから、もの凄く辛かった。僕が望んだことであり、頭の中ではこれが最善なんだとわかってはいても……」
――バルセロナに到着してトライアルを受けたもののクラブが結論を下すのが遅れたうえに、ライセンスの認可も遅れさらに酷い怪我も負いました。すべてを投げ捨ててロサリオに帰りたいとは思いませんでしたか?
「それはなかった。たしかに苦しくはあったけど、そんな気持ちになったことは一度もなかった。1年目は本当にいろいろあった。最初の数カ月はニューウェルズ・オールドボーイズの移籍証明発行が遅れてプレーができなかった。練習には参加したけど試合には出場できない。そしていざ出場できるようになると、今度は脛骨が折れてまた3カ月ピッチを離れた。その間に母が兄のひとり(マチアス)と妹を連れてアルゼンチンに帰国した。家族がバラバラになって、状況はさらに悪くなった。でも僕は、アルゼンチンに帰りたいとは思わなかった。時間がたつにつれてフィットしていくのがわかったし、プロ選手になるという夢を実現しようとしているのを実感できた」 <#2に続く>
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