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「マイアミの奇跡が“コンプレックス”だった」前園真聖47歳の告白《幻のスペイン移籍とヴェルディが払った約3億円》
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph byYuki Suenaga
posted2021/07/21 17:07
「マイアミの奇跡」はちょうど25年前の7月21日だった。前園は当時22歳、五輪代表のキャプテンを務めていた
「もうカッコつけて何かいいこと言おうとかせず、素の自分でいようと思っているというか。正直、以前は番組に呼ばれて何かコメントして収録が終わればパッと帰り、漠然と仕事をこなしていて周りのスタッフの有難みなどもわかっていない部分があったんです。でもバラエティ番組に呼んでもらったこともそうですし、そこで僕がつまらない話をしても共演者の方が面白くしてくれたり、周りの人に助けられながら考え方が変わりました。
たとえば、街を歩くようなロケ番組で演者の僕は美味しい物を食べているだけですが、ADさんやカメラ、音声を担当する技術の方々も1日中重たい荷物を持って付き添ってくれるわけじゃないですか。恥ずかしい話、かつてはそういうことにまったく目が向いていない自分がいました。それこそ昔のNumberの表紙を思い返すと、僕が“街ロケ”なんてと思いますよね。でも、いまはすごく楽しくやらせてもらっていますし、今更ながら人と関わるのが好きになりましたね(笑)」
「じつはアトランタ五輪が“コンプレックス”だった」
主将として、エースとしてアトランタ五輪代表チームをけん引していた頃を思えば、誰もが次の日本代表を背負うのは前園だと思っていた。だが、前園はその後W杯に1度も出ることがなければ、思い描いていたようなキャリアを歩むこともなかった。
「僕自身も五輪に出たあと、W杯にも何大会か出るようなイメージだったんですけどね。でも、うまくいきませんでした。現役の間はどこかでそのことを引きずっている部分はありましたし、引退後もきちんと消化するまでには数年かかりました。誰かのせいにするつもりはないですし、ただ、自分の力がなかったということです。いまの自分にはそうした苦い経験も糧になっていると信じたい。
05年まで現役を続けましたが、いまも言われるのはアトランタ五輪でキャプテンを務めたということだけ。僕の実績のなかではそこがいちばんのピーク。当初は、それだけを言われるのがすごく嫌というかコンプレックスでした。でも、逆に言えばそれがなかったら引退後にサッカーに関わる仕事やテレビに出るようなこともなかったでしょうし、いまでは救われていると感じています」
幻のスペイン移籍「3~4億円の移籍金」
このままでは世界に追いつけない――。アトランタ五輪で世界を感じた前園の心は、一気に海外移籍へと傾いた。五輪後には、ヨーロッパの複数のクラブが関心を持っていると報じられ、とくに熱心だったスペイン1部のセビージャは関係者も来日。所属の横浜フリューゲルスとの間で交渉の場が設けられたが、約3~4億円とも言われた高額の移籍金がネックとなり契約はまとまらなかった。
その後は紆余曲折を経て、翌年の契約期限ギリギリのタイミングで日本人サッカー選手としては過去最高の金額でヴェルディ川崎へ移籍(当時、移籍金3億4千万とも報じられた)。だが、一度スペインに向かった気持ちを再び戻すことは難しかったと振り返る。