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「マイアミの奇跡が“コンプレックス”だった」前園真聖47歳の告白《幻のスペイン移籍とヴェルディが払った約3億円》
posted2021/07/21 17:07
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph by
Yuki Suenaga
ちょうど25年前の7月21日、1996年アトランタ五輪で世界最強のブラジルを破った「マイアミの奇跡」。当時エース&主将として五輪代表をけん引した前園真聖さんのインタビュー(全3回の3回目/#1、#2へ)。
90年代後半、サッカー界の期待の星として前園真聖は雑誌『Number』の表紙を何度も飾ってきた。金網をバックにロン毛にピアス、中田英寿との2ショットもあれば、短パン姿で上半身裸というものまで――どれも鋭い眼光と“ギラギラ感”が印象に残る。
もちろん、当時の前園はピッチでもキレキレだった。とくに28年ぶりに世界への扉を開いた96年アトランタ五輪の予選から本番までは絶頂期ともいえ、出場を決めたアジア最終予選の準決勝サウジアラビア戦で2点を叩き出した一連のプレーなどは神懸かっていた。
「(自身の表紙を見ながら)いまサッカー選手のこんな写真ってあります? (鋭い目つきは)意識していたわけではないですが、世界を目指して上にいくには自分だけを信じて突き進むしかない、そんな風に思っていたというか……。この頃はメディアとも距離を置いていましたし、馴れ馴れしさを少しでも見せれば自分が崩れていってしまうような気がしていたんです。
若くて多少尖ってないとやっていけなかったですし、歳を重ね、いろんな経験をしてみるとあの時代はこれでよかったと思ったりもします。いまは仕事するにしても、いろんな人の支えなしにはできないとわかるんですけどね……」
「ADさん、技術さんに目が向いていなかった」
前園は少し照れながら、若かりし自分の姿をそう振り返った。
かつての鋭い眼光は、すっかり優しくなった。お酒のトラブルを経て『ワイドナショー』で転機を迎え、さらにスポーツの枠を超えて多くの番組に呼ばれるようになる過程で、考え方も変わってきたという。