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「マイアミの奇跡が“コンプレックス”だった」前園真聖47歳の告白《幻のスペイン移籍とヴェルディが払った約3億円》
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph byYuki Suenaga
posted2021/07/21 17:07
「マイアミの奇跡」はちょうど25年前の7月21日だった。前園は当時22歳、五輪代表のキャプテンを務めていた
「決まりかけたスペインへの移籍話が途絶えて、その後のモチベーションが100%かといえば、そうじゃなかったですね。当然プロとして結果を出さないといけないとは思っていましたし、自分なりに努力はしていたつもりですが……。
移籍金が高額だったなかヴェルディに拾ってもらう形になって、周りがどう見ているかも気になったり。五輪に出た翌年ですから、当時まだ23歳。自分をコントロールすることができなかったというか、まだまだ未熟だったんだと思います」
当時のヴェルディはJリーグ開幕直後の黄金期が過ぎた頃でチームとして難しい状況にあったのは確かだ。ただ、前園はトップフォームを取り戻すキッカケを掴めそうなシーンがいくつかありながら、そのチャンスを活かせなかったとも話す。
ヴェルディ移籍1年目の国立競技場での鹿島アントラーズとのゼロックス・スーパー杯(97年4月5日)。結果は3-2で鹿島の勝利に終わったが、その試合で前園は絶対的な決定機ともいえたGKとの一対一のシーンでシュートを外している。
「攻撃の選手はやっぱりゴールで変わりますから。ただ、いまにして思えば、あそこで決めていたら流れが変わっていたかもしれないというだけですけどね。その後も立て直す期間は十分ありながら、結局はうまくいかなかった。マスコミにも叩かれ……気にしないようにしてもやっぱり気になっていたんでしょうね」
思わぬバッシング「本当に叩かれました」
前園にとって気の毒だったのはJリーグが誕生したあと、90年代後半は海外移籍はもちろん、国内移籍すら一般的ではなかったこと。それゆえスペインに向けた移籍交渉の場では、両クラブの担当者の話し合いをただ見守ることしかできず、ヴェルディ移籍の際にはいまでは当たり前となっている代理人(弁護士)を立てて交渉に臨んだことで思わぬバッシングに遭った。存在感が突き抜けていたことで、ある意味、時代の犠牲者にされてしまったとも言えるかもしれない。
「僕の前にカズさん(三浦知良)がセリエA・ジェノアに行っていましたが、クラブ間で大きな移籍金が発生するようなケースとしてはたぶん最初でしたから。ただアトランタ五輪が終わったあと、僕も移籍交渉のことなど何もわからないまま気持ちだけが海外に向いてしまった。だから、もう行きたいの一心で行かせてくれないクラブに不信感を募らせたり。いま考えれば移籍するのに代理人がいないとか考えられないですけどね。(国内のサッカーでは)代理人が初めてだったことで本当に叩かれましたから」
前園のなかでは、スペインに移籍できなかったことはキャリアにおいて唯一の心残りだというが、移籍した姿を見たかったサッカーファンは多いはずだ。
「移籍できていたとしても通用したかどうかはわかりません。でも、行けば自分自身納得はできたでしょうし。まあ、ずっとベンチだったかもしれないですけどね(苦笑)」
(【初めから読む】マイアミの奇跡から25年…“主将”前園真聖47歳に聞く「日本と世界の差は縮まった?」「東京五輪でメダルの可能性は?」 へ)