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原辰徳「桑田は若いけど放っておいてもやる人間」 “1987年の桑田真澄”、恐るべき19歳を振り返る【巨人コーチ就任】 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/01/22 17:02

原辰徳「桑田は若いけど放っておいてもやる人間」 “1987年の桑田真澄”、恐るべき19歳を振り返る【巨人コーチ就任】<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1987年の日本シリーズ、西武対巨人。前日ブルペンで投球練習をする19歳の桑田

 高卒新人最多の31本塁打を放ち新人王を受賞し、西武も日本一に輝く。オフには“新人類”の象徴として新語・流行語大賞の表彰式に呼ばれ、年上美女とのデート現場をフライデーされ、紅白歌合戦の審査員もタキシード姿で務めた。プロ野球界というジャンルの枠を超え、当時の清原は日本で最も有名な若者だった。

1987年のオフ、桑田に何があったのか?

 同じ頃、桑田は米アリゾナの教育リーグに派遣されていた。その最終日にグランド・キャニオン観光へ連れて行かれるも、本人はまったく乗り気じゃなく、監督に「いくぞ」とバスに乗せられ、ほとんど不貞腐れながら後部座席で揺られていたという。しかし、嫌々ながら見た大渓谷の景色に圧倒され、涙を流しながら己の小ささを思い知る。いわば、世界の広さを知ったのだ。そして、18歳の桑田は「今年は2勝だった。来年8つ勝てばトータルで10勝だ。まず、10勝達成を目指そう」と大自然を前に目標を立てたと自著『心の野球』(幻冬舎)に書き記している。

 逆襲を誓った背番号18を背負う男は帰国後、正月休みを返上して日本球界ではまだ珍しかったウェイトトレーニングを始め、さらに栄養学、心理学、解剖学、運動生理学、メンタルトレーニングに関する本を買い込み独学で勉強した。しかも、プロ入り当初から10年かけて理想のピッチングを完成させたいと、1年目はあえてストレートとカーブだけで投球を組み立てたが、2年目からスライダーを習得し、“サンダーボール”と名付けたスプリットにも挑戦する。俺はこのままじゃ終わってしまう……。元甲子園のアイドルが抱いた強い危機感と覚悟。夜の街の付き合いも煙草も必要ない。友達を作るためにプロ野球選手になったわけじゃない。他人からどう思われようが、俺は俺の道を行く。結果的に1987年のオフは、桑田の野球人生にとってターニングポイントになる。

プロ初完封、初アーチ&4打点のワンマンショー

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 オープン戦でプロ入り以来初めて巨人の18番と対戦して、空振り三振を喫した清原は、「これで昨年2勝しかできないなんて、セ・リーグの打者って余程すごいんだなと思った。それほどよかった」とライバルの急成長に驚く。4月1日に19歳の誕生日を迎えた桑田は、オープン戦の勢いそのままに4月14日のヤクルト戦でのシーズン初先発を2失点完投勝利で飾り、そこから破竹の勢いで勝ち続ける。

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