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原辰徳「桑田は若いけど放っておいてもやる人間」 “1987年の桑田真澄”、恐るべき19歳を振り返る【巨人コーチ就任】
posted2021/01/22 17:02
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
「桑田が1年目の時、軽い冗談で野手に転向したら、って本人に言ったんです。バッティングとフィールディングがあまりに素晴らしいんで。そしたらアイツ、マジでむっとした顔をし、『いや、ボクは絶対ピッチャー1本でやります』って」
これは30年以上前、原辰徳が『週刊現代』誌上で堀内恒夫と対談した際の発言である。当時29歳のタツノリは「桑田は若いけど放っておいてもやる人間。自分の世界をもう持ってますね。ボクの19歳のころを考えたらすごいと思いますよ」と巨人の新エースを称賛している。そう、沢村賞を獲得した背番号18は、あの頃まだ19歳だった。プロ2年目、前年わずか2勝からの華麗なる逆襲。「1987年の桑田真澄」は誰よりも輝いていた。
球界一のダーティヒーローだった
若い野球ファンには信じられないかもしれないが、当時の桑田は球界一のダーティーヒーローだった。80年代中盤、日本中を沸かせたPL学園の“KKコンビ”は85年ドラフト会議で明暗を分ける。甲子園歴代最多の13本塁打を放ち憧れの王貞治率いる巨人入りを熱望する清原、甲子園通算20勝も退部届けを出さず早稲田大学進学を表明していた桑田。だが、蓋を開けてみたら巨人はなんと桑田を単独1位指名する。6球団が1位入札した清原は、最終的に西武ライオンズが交渉権を獲得。巨人と盟友に裏切られたと思い込んだガラスの十代のキヨマーは、会見場で悔し涙を滲ませた。
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結果的に、進学を取り止め巨人入りを決めた桑田は、甲子園のヒーローから一夜にして球界のヒール(悪役)になってしまう。プロ1年目は、巨人合宿所の入居時に自室の壁紙をわざわざ張り替え、イースタンの試合後はチームの荷物運びより右肘のアイシングを優先させるゴーイングマイウェイぶりが話題となり、6月の阪神戦で初完投初勝利。試合後のインタビューで厳しい内角攻めについて聞かれ、「内角球を投げちゃいかんという法律でもあるんですか」なんて言い放つ強心臓ぶりを見せるも、このシーズンは2勝1敗、防御率5.14で終える。
高卒ルーキーとしては上々のデビューとも思えるが、なにせライバルの清原がすごすぎた。