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【ノンフィクション】仰木彬と鈴木一朗、2人はなぜ共鳴したのか《1994年「イチロー」誕生の舞台裏を新井宏昌らの証言で振り返る》

2025/03/31
「仰木監督から学んだものは計り知れないですね」引退会見でイチローが挙げた、亡き恩師の名前。歴戦の指揮官・仰木彬とプロ3年目の青年・鈴木一朗――40歳ほども年の離れた2人はなぜ、心を通わせたのか。1994年の運命的な巡り合いから、イチローの伝説は始まった。(初出:NumberPLUS イチロー「1994年の仰木彬と鈴木一朗」 NumberPLUS「イチローのすべて」にも掲載)

 鈴木一朗が「イチロー」になった日、仰木彬はこれから起こる何かがわかっているかのように上機嫌だった。

 1994年4月7日、神戸市西区のオリックス選手寮「青濤館」に隣接する室内練習場。登録名をカタカナにするふたりの若者、ICHIROとPUNCHの背中を、集めたカメラマンの方へ向けさせると、自分はその間で彼らの肩に手をまわして笑っていた。

'94年、登録名「イチロー」(鈴木一朗)と「パンチ」(佐藤和弘)が誕生した Asahi Shimbun
'94年、登録名「イチロー」(鈴木一朗)と「パンチ」(佐藤和弘)が誕生した Asahi Shimbun

 チームの広報になったばかりの横田昭作は本来ならば自分がやるべき段取りを全てやってしまった指揮官に呆気にとられるとともに、本当に大丈夫なのだろうか、と心配になった。

「みんなイチローに実力があるとは思っていました。でもまだ高校出て3年目の20歳でしたから、100%活躍するかどうかなんてわからない。本人も『え? 本当にやるんですか?』という感じでしたから。それをああやってバーッと報道陣に向けてやってしまう。今から考えればすごいことですよ」

 サングラスの奥で光る仰木の眼が何を見通しているのか、横田にはまだわからなかった。

 横田が初めて鈴木一朗を見たのは1992年の晩夏だった。通訳としてオリックス球団に入り、当時二軍の投手コーチだったジム・コルボーンに付いたばかりだった。

『あの51番の選手は絶対に活躍するぞ、絶対にすごい選手になる』

 何度聞いただろうか。メジャー通算83勝の右腕は口癖のように言っていた。

 確かに見るたびに彼はヒットを打っていた。高卒1年目ながらウエスタン・リーグの首位打者になるほどだった。

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photograph by SANKEI SHIMBUN

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