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「金メダルへの強迫観念があった」レスリング・阿部巨史が振り返る西ドイツでの絶望→NY移住→悪夢、そして…《連載「オリンピック4位という人生」1972年ミュンヘン》

2024/08/07
ミュンヘン五輪、レスリング・フリー62kg級以下で4位となった阿部巨史さん
フリー62kg級以下の3種目で五輪2連覇を果たしていた日本レスリング男子。期待されたミュンヘンでひとりその使命を果たせなかった男は、祖国を飛び出す―。(初出:Number991号 1972ミュンヘン「NYで手に入れたメダル」オリンピック4位という人生)

 その夢はいつも忘れたころに夜の静寂を破ってやってきて、阿部巨史を1972年のミュンヘンへと引き戻した。

「オリンピックが近づいてくる夢です。金メダルを取らなければという強迫観念が追いかけてくる。それでロードワークにいかなきゃとガバッと起きる。それで……、また忘れたころに同じ夢を見るんです」

 布団を撥ね上げ、ベッドから窓を見る。外には闇に包まれたニューヨークの街が広がっている。そこでようやく自分が今、別の世界にいることを確認する。阿部は10年もの間、そうしたことを繰り返してきた。

 1972年、ミュンヘン・オリンピック。西ドイツ北部ハノーファーのコンベンションセンターに阿部はいた。日本レスリング界のエースとしてマットの上に立っていた。

©Getty Images
©Getty Images

 そして追いつめられていた。

「私は金メダルしか狙っていませんでしたが、1戦目、2戦目と思うようにフォール勝ちできず、まずいなと感じていたんです」

 この時代は「バッド・マーク・システム」が採用されていた。各選手に持ち点6が与えられ、勝敗により以下の減点が課された。

 ●フォール勝ち=±0、負け=−4

 ●判定勝ち=−1、負け=−3(10ポイント以上の差がつくと各−0・5、−3・5となる)

 ●引き分け=−2

 試合を重ねるなかで持ち点がなくなった選手から敗退となり、最終的に残った選手の中で持ち点順にメダルが決まる。

 阿部は3戦目まで全勝したが、うち2つは判定勝ちで持ち点は5になっていた。想定外の減点に焦りを抱えながら、4戦目、優勝争いのライバル、ソ連のアブドゥルべコフと戦うことになった。

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photograph by Kiyoshi Abe/The Mainicahi Newspapers

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