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「もし、サンデーサイレンスがいなかったら…」最強種牡馬導入の立役者が語る秘話…なぜ米国の年度代表馬を購入できたのか「日本へ行けて本当によかった」
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軍土門隼夫Hayao Gundomon
photograph byGetty Images
posted2025/10/22 17:03
サンデーサイレンス(左)は'89年の米・プリークネスSで激しい叩き合いの末、ライバルの栗毛馬・イージーゴア(右)をハナ差で破る死闘を演じた
「うちはノーザンテーストが成功するまでは、日高のテスコボーイとかネヴァービート、ファバージとかに少し負けていたんです。でもダービーを獲るにはそういう種牡馬がいないといけないということで、まずノーザンテーストが切り拓いて('86年、産駒のダイナガリバーで社台ファーム初のダービー制覇)。そしてサンデーが現れたんです。今でもそうですけど、当時、ああいうアメリカのトップの競走馬を種牡馬として買えるチャンスなんて、普通は絶対になかったですから」
ちょうど日本の経済が強く、逆にアメリカが不況に見舞われていたという時代背景も追い風にはなった。しかしそれ以上に、アメリカでのサンデーサイレンスの評価がいまひとつだったことも確かだった。
値段がつかない馬
デビュー前のサンデーサイレンスはセールに出しても思うような値がつかず、結局アーサーが自分で落札して帰るような馬だった。血統は地味、馬体は華奢で見栄えがしない。そしてとにかく気性が荒かった。
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「こっちでも、めちゃくちゃ噛みついてましたよ。血統は当時、アメリカの評論家にずいぶん馬鹿にされたみたいですね。それにあの頃はまだ古いアメリカの意識、ニューヨークの方がカリフォルニアより上だみたいなイメージもあったんじゃないかな。サンデーは西海岸の馬でしたから」
今もアーサーは照哉と会うと、サンデーサイレンスの思い出話をするという。
「日本へ行けて本当によかった、あのままアメリカで種牡馬になっていたとしても、誰も種付けしてくれず成功しなかったと思うって言いますね。去年のケンタッキーダービーでも、アーサーは日本のフォーエバーヤング(3代前の父がサンデーサイレンス)を応援していたそうです。まるでサンデーがアメリカに帰ってきたみたいだと思ったって。惜しい3着でしたけど、外にいた馬のジョッキーが邪魔しなければ勝てたのにって悔しそうでした(笑)」
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