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「“次のサンデーサイレンス”が怖い」吉田照哉、勝已が語る“原点にして頂点”の種牡馬、そして競馬の奥深さ「ディープはもちろんすごかった。でも…」

2025/10/09
サンデーサイレンス(左)は'89年の米・プリークネスSで激しい叩き合いの末、ライバルの栗毛馬・イージーゴア(右)をハナ差で破る死闘を演じた
その青鹿毛馬は、1990年の秋にやってきた。産駒は初年度から次々にGIで勝利を挙げ、たちまち日本競馬シーンを席捲。その血はさらに代を重ねるごとに、また歴史を塗り替えていく。最強種牡馬導入の立役者である吉田家の2人が当時の衝撃と様変わりした現在について語った。(原題:[原点にして頂点]サンデーサイレンス「革命と脅威の突然変異」)

「そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね。わたしは生まれ変われないが、わたしのね、馬屋の意地は生まれ変われるんだ」(吉川良『血と知と地』)

 今から約35年前、社台ファームの創業者である故・吉田善哉は、種牡馬としてサンデーサイレンスを手に入れるための交渉を行っている最中、そんな言葉を漏らした。

 そしてその言葉は本当になった。13年連続でリーディングサイアーに君臨し、数え切れない大レース勝ち馬を送り出した。多くの後継種牡馬が誕生し、またその次の後継へと血を繋いでいった。もしサンデーサイレンスがいなかったら、今の日本の競馬はまったく違ったものになっていた。

 ケンタッキーダービーやプリークネスS、ブリーダーズCクラシックなどを制してアメリカの年度代表馬に輝いたサンデーサイレンスは、1990年の秋に日本へやって来た。それほどの馬を日本の牧場が購入できたのは、アメリカ競馬への強烈な憧れを原動力とした善哉の情熱に加え、同馬を管理していたカリフォルニアのチャーリー・ウィッティンガム調教師との深い親交があったからこそだった。

 その善哉の長男で、現在の社台ファーム代表を務める吉田照哉は今年で78歳。'70年代には社台ファームがアメリカの拠点としていたケンタッキー州のフォンテンブローファームの場長を務めていたが、そのすぐ近くにあったのが、のちにサンデーサイレンスが誕生するストーンファームだった。

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photograph by Getty Images

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