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「もし、サンデーサイレンスがいなかったら…」最強種牡馬導入の立役者が語る秘話…なぜ米国の年度代表馬を購入できたのか「日本へ行けて本当によかった」
posted2025/10/22 17:03
サンデーサイレンス(左)は'89年の米・プリークネスSで激しい叩き合いの末、ライバルの栗毛馬・イージーゴア(右)をハナ差で破る死闘を演じた
text by

軍土門隼夫Hayao Gundomon
photograph by
Getty Images
発売中のNumber1129号に掲載の[原点にして頂点]サンデーサイレンス「革命と脅威の突然変異」より内容を一部抜粋してお届けします。
もし、サンデーサイレンスがいなかったら…
「そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね。わたしは生まれ変われないが、わたしのね、馬屋の意地は生まれ変われるんだ」(吉川良『血と知と地』)
今から約35年前、社台ファームの創業者である故・吉田善哉は、種牡馬としてサンデーサイレンスを手に入れるための交渉を行っている最中、そんな言葉を漏らした。
そしてその言葉は本当になった。13年連続でリーディングサイアーに君臨し、数え切れない大レース勝ち馬を送り出した。多くの後継種牡馬が誕生し、またその次の後継へと血を繋いでいった。もしサンデーサイレンスがいなかったら、今の日本の競馬はまったく違ったものになっていた。
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ケンタッキーダービーやプリークネスS、ブリーダーズCクラシックなどを制してアメリカの年度代表馬に輝いたサンデーサイレンスは、1990年の秋に日本へやって来た。それほどの馬を日本の牧場が購入できたのは、アメリカ競馬への強烈な憧れを原動力とした善哉の情熱に加え、同馬を管理していたカリフォルニアのチャーリー・ウィッティンガム調教師との深い親交があったからこそだった。
その善哉の長男で、現在の社台ファーム代表を務める吉田照哉は今年で78歳。'70年代には社台ファームがアメリカの拠点としていたケンタッキー州のフォンテンブローファームの場長を務めていたが、そのすぐ近くにあったのが、のちにサンデーサイレンスが誕生するストーンファームだった。
ストーンファームを経営するアーサー・ハンコック3世は照哉の4歳上。アメリカきっての大牧場クレイボーンファームの長男という境遇も似ており、まだ20代だった二人は親友と呼べる関係を築く。
3歳秋にブリーダーズCを勝ったとき、サンデーサイレンスはまだ日本ではなくアメリカで種牡馬入りする予定だった。しかしそれでも構わないからと照哉はアーサーに頼み、4分の1の権利を売ってもらった。それが、すべての突破口となっていった。
照哉はアーサーを「命の恩人」だと言う
今年9月、照哉はキーンランドのセールに参加するためアメリカへ飛んだ。ケンタッキーを訪れるのは2年ぶりだった。
「今回もアーサーさんに会ってきましたよ。行くたびに会ってます。もう50年以上の付き合いですからね。マイ・オールデスト・フレンドって言われてますよ」
一方、照哉はそんなアーサーを「命の恩人」だと言う。


