酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
ドジャース「幻の長嶋茂雄トレード獲得」は本気だった…監督が直談判「メジャーでやる気あるか?」じつは“ド軍ユニ”でプレーした日も
text by

広尾晃Kou Hiroo
photograph byAl Bello/Getty Images
posted2025/06/21 06:00
2003年、ヤンキース松井秀喜と握手する長嶋茂雄。もし彼がドジャースに電撃トレードとなっていたら、日米の野球史は大きく変わっていたのだろう
1961年、川上哲治が巨人の監督に就任する。巨人は前任の水原茂監督の時代からアル・キャンパニス著 『ドジャースの戦法』を教科書として重視していたが、川上新監督は、キャンパニスがディレクターとして選手を指導するドジャースのスプリングトレーニング地フロリダ州ベロビーチで、1年目の春季キャンプを行った。ベロビーチキャンプは1年だけだったが、巨人はその後の「V9」につながる戦略、技術などを習得した。
とりわけ長嶋はキャンプ地でもはつらつとプレーし、ドジャース側に強烈な印象を与えたようだ。ドジャースのウォルター・オルストン監督は長嶋に「メジャーでやる気はあるか?」と直談判したという。長嶋は「機会があれば」と答えたとされる。
大谷・由伸の60年前にトレードで長嶋がいたら…
ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーは1963年オフに来日し、長嶋茂雄のトレードを申し込んだ。じつは翌64年に南海から野球留学でジャイアンツ傘下マイナーに派遣されていた村上雅則が、MLBに昇格し、中継ぎ投手として活躍するタイミングだった。
ADVERTISEMENT
ジャイアンツとドジャースは同じナショナル・リーグで、西海岸を本拠地とするライバルだった。それもあってオマリーオーナーは、日本人メジャーリーガーを獲得する時期だ、と判断したのかもしれない。
しかし巨人の正力松太郎オーナーは「長嶋は出さない」と明言。ドジャースのトレードは幻となった。長嶋茂雄本人にも伝えなかったという。
もし、このときに正力オーナーが許諾していたら――ドジャースのロースターに「Shohei Ohtani」「Yoshinobu Yamamoto」の名前が刻まれた2024年から遡ること60年前、1964年に「Shigeo Nagashima」の名前が載ったかもしれない。
当時のド軍打線“じつはサードが弱点”だった
1964年のドジャースは80勝82敗、ナ・リーグ10チーム中6位とやや冴えないシーズンではあった。監督は引き続きオルストン。開幕戦のオーダーは以下の通り。
1番(遊)モーリー・ウィルス
2番(二)ジム・ギリアム
3番(中)ウィリー・デービス
4番(左)トミー・デービス
5番(一)ロン・フェアリー
6番(右)フランク・ハワード
7番(捕)ジョン・ローズボロ
8番(三)ジョニー・ワーハス
9番(投)サンディ・コーファックス
当時のドジャースは、メジャー史に残る大投手コーファックスに加えて、日本球界にゆかりある選手も多かった。

