マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
“野球経験ナシ”の指導者が教えた東京下町「公立中の軟式野球部」からナゼ有力選手が続々輩出?「50m四方の校庭」で“西尾先生”が伝えたこと
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安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byJIJI PRESS
posted2025/05/24 06:00
DeNAの深沢鳳介(左)やロッテの横山陸人などプロ野球選手も輩出する上一色中学。下町の公立中の軟式野球部を導いた名指導者の軌跡とは?
人が亡くなってこんなに泣いたの、初めてです……渡したハンカチがグシャグシャになっていた。
「もうじき教員が終わるから少し楽になる」
昨年3月、「もうじき教員が終わるから少し楽になる」と、笑っていた時、長く続けたことをやめるとガクッと来るから気をつけなよ……と心配したら、「実は腹が痛くて」と西尾先生が珍しくこぼしていたのが気になっていた。
夏の大会が終わったら……というのを、何度も「検査を」と言ってケンカみたいになったこともあったが、結局夏の大会前にはもう手術のきかないすい臓ガンであることが判明していたという。
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春の終わりには「食べられない」と西尾先生らしくない泣きも入って、夏の大会で会った時には、別人みたいに痩せていた。
溶けるほどの炎暑の中、夏の都大会は準決勝で惜敗。
試合の後は立っているのがやっとで、口もきけないほどの状態だったから、そこからは、ようやく自宅で療養が始まった。
抗がん剤治療の辛さに懸命に耐えながら、もしかしたら、西尾さんは67歳にして初めて、ホッとできる時間を得られたのかもしれない。
奥さまと二人だけの8カ月に及ぶ療養生活。西尾さんは誰とも会わず、誰にも病状を伝えなかった。あんなに、人に会うのが好きだった西尾さんが、そこを我慢して過ごした8カ月間。弱った姿を見せたくなかったし、たくさんの見舞い客で、奥さまに迷惑をかけたくないとも語っていたそうだ。
そんなこんなで、西尾さんの具合がよくないことは、みんながそれとなく察していたが、結果的に途中経過のない「急死」になったので、訃報を知らされた時の驚きと悲しみは、ひとしおのものになったはずだ。
昭和32年だから1957年、東京都足立区生まれ。
25の年に中学校の教員になって、そこから4つの中学で技術・家庭の教員として、教壇で42年、グラウンドで35年。
人の倍も生きたような人生だったから、戸籍上は「享年67歳」かもしれないが、「本当の享年」は102歳みたいな一生だった。
もっと語りたいこと、もっと伝えたいこと、訴えたいこと、怒りたいこと、叶えたいこと、行ってみたい場所、そしてなにより、会っておきたい人たち……あれも、これもぜんぶ我慢したまま、西尾先生は天国へ駆け上がって行ってしまった。合掌。
