マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
“野球経験ナシ”の指導者が教えた東京下町「公立中の軟式野球部」からナゼ有力選手が続々輩出?「50m四方の校庭」で“西尾先生”が伝えたこと
posted2025/05/24 06:00

DeNAの深沢鳳介(左)やロッテの横山陸人などプロ野球選手も輩出する上一色中学。下町の公立中の軟式野球部を導いた名指導者の軌跡とは?
text by

安倍昌彦Masahiko Abe
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JIJI PRESS
上一色中学校(東京)野球部の監督を長く続けていた西尾弘幸先生が、4月30日、すい臓ガンのために亡くなられた。
正確にいうと、昨年3月かぎりで教員の職は辞しておられたので「先生」ではないのだが、そのあとも、みんなが「西尾先生、西尾先生」だったのだから、「西尾先生」でよいと思う。
その西尾先生とは、前任の小松川第三中学校の頃からのお付き合いになるので、初めてお会いしたのはもう30年近く前のことになる。『野球小僧』という雑誌のお手伝いで、学校にうかがったのが最初だった。
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今も、JR総武線から見えると思うが、校庭が三角形の学校だった。この「グラウンド」で、どうやって野球の練習をするのか……と思ったが、部員の少年たちの活気に圧倒されたことを覚えている。
ときどき、練習にうかがって、部員たちに「お節介アドバイス」をしたり、大会の試合ぶりを見に行くようになったのは、2006年に、西尾先生が上一色中に赴任されてからだ。
「普通の区立中学」が全国制覇
グラウンド……いや、校庭はここでもあまり広くならずに、せいぜいタテ50m、ヨコ70mの変形の校庭で他の運動部との共用だった。
東京の、どこにでもあるようなL字校舎と体育館と狭い校庭だけの小さな区立中学で、西尾先生はその後20年ほどの間に、全国大会常連(ベスト4・2回、準優勝・2回)、2022年には全国優勝するほどの強豪軟式野球部を育て上げてみせた。
それほどの輝かしい戦績があったのに、西尾先生には野球の経験がなかった。中学までは野球部だったらしいが、「あんなの、やったうちに入りませんよ」と、いつも笑っていた。
それが、西尾先生の弱味でもあり、強味でもあった。
「自分は野球の技術は教えられないから」と、ツテを頼って選手たちを指導できそうな関係者に来てもらって、選手たちと一緒に、自身も懸命に勉強されていた。
監督さんなのだから、選手から訊かれたら知ったかぶりの一つもしたくなろうが、自分でわからないことは知っていそうな人を探して、ほんとのところを確かめていた。