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「レアルは無礼」「“事前情報”の圧が特に激しい」バロンドール表彰式“ボイコット騒動”にフランス誌関係者が反論「モラル面でも敗北だ」
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田村修一Shuichi Tamura
photograph byREUTERS/AFLO
posted2025/02/03 17:28

ロドリがバロンドールに輝いた一方で、2位ビニシウス、3位ベリンガムのマドリー勢は表彰式を欠席した
「レアルやシティに限らず、どのクラブにも予め結果を知らせることはない。受賞の際のロドリの姿を見ればそれは明らかで、彼があれほど驚き喜んだのは、結果を知らなかったからに他ならない。
しかしクラブは、情報を求めて圧力をかけてくる。やり方を変えろと要求もしてくる。レアルの場合、それは特に激しかったが、われわれの対応は明確だ。すべてのクラブに規則の順守を求める。恐らく私の沈黙が彼らを苛立たせたのだろう。ボイコットを決めた時点では、欠席はわれわれに対する揺さぶり――ブラフの意味合いもあったのだろう。100%の確信があってのことではなかったハズだ。もしもビニシウスが受賞していたら、彼の受けるダメージは計り知れなかっただろう」
“牧歌的”な中で情報の機密は守られていた
1956年に創設されたバロンドール(当時はヨーロッパ最優秀選手賞)は、当初はヨーロッパ16カ国のサッカー担当記者の投票で決められた。その後、投票委員の数は増大し、地域も全世界が対象となる世界最優秀選手賞へと徐々に変貌を遂げたが、投票方法や運営については長く牧歌的な時代が続いた。また、はじめは表彰式もなく、受賞者には編集長または記者が試合会場に出向き、試合前にトロフィーを授与する。それだけだった。
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投票の締め切りもあってなきようなもの。連絡のない記者には、編集部員が電話をして結果を聞く。編集部内も極めてオープンで、部員の誰もが結果を知っている。筆者が継続的に編集部に出入りするようになった1990年代半ばでも、友人の記者(ザビエ・バレ)が紙と鉛筆で投票結果を集計していた。正直、電卓ぐらい使えよと思った。
だが、ひとたび編集部の外に出ると、情報の機密は守られていた。毎年、秋になるとガゼッタ・デロ・スポルト紙は記者をパリに派遣し、投票の結果を探ろうとしたが常に無駄足に終わった。
ただしそれでも情報は洩れる。マドリードやバルセロナでは、バロンドールの季節になると「そろそろムッシュー・バロンドール(ヴァンサン・マシュノー)が、受賞者インタビューにやって来るぞ」と人々が噂し合った。
筆者もマシュノー(スペイン語・ポルトガル語の受賞者インタビュー担当)に、「まだバルセロナに行かなくていいのか?」と尋ねると、ニヤっと笑って「君はどうして私が行くことを知っているんだ?」という答えが返ってきた。
ロナウドはメッシ受賞の年に欠席したことも
当時の編集長であったジェラール・エルノーは、誇らしげにこう語った。