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ぶら野球BACK NUMBER
「所持金はわずか5円だった」18歳落合博満、“失敗続き”の日々「練習はサボってばかり」高校野球のシゴキを嫌った男が25歳でプロになるまで
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/10/09 11:00
1978年ドラフト3位指名、25歳でロッテに入団した落合博満。18歳で東洋大を中退したあと、落合は何をしていたのか?
「毎日あっちをウロウロ、こっちをウロウロ。犬を引っ張った西郷さんの銅像をながめながら上野公園で寝たこともあるし、日比谷公園に一泊させてもらったこともある。暑い夏の日だったが、後楽園でちょうど都市対抗をやっていた。外野席で朝から一日中見ていて、全ゲームが終わったとき、ヒョッとポケットの中を調べたら、五円しかない。後楽園からテクテク歩いたけど、行くあてもなければ、やることもない」(なんと言われようとオレ流さ/落合博満/講談社)
“3000円”でプロボウラーを諦めた
身長178cm、体重78kgの立派な体躯を持て余す若者は、今で言うニートのような立場だった。腐るほどの時間はあるが、とにかくカネがない。己に絶望しているわけではないが、でっかい夢があるわけでもない。そんなどこにでもいる18歳の青春の蹉跌。やがて故郷の秋田に帰り、フラフラしていたらボウリング場の支配人をしていた兄からアルバイトを勧められた。ピンを磨きながら、一時はプロボウラーを志すも、3000円の受験料を用意してプロテストを受けに行く準備をしていたときのことだ。
「人の運不運は、どうころぶかわからない。プロテストが目前に迫ったある日、私は、交通規則違反をおかしてしまった。初心者ドライバーをしめす若葉マークの貼り忘れ運転である。罰金は三千円。これでなけなしの受験料は消えてしまい、プロボウラーの夢は、つぶれてしまった」(勝負の方程式/落合博満/小学館)
プロボウラーへの道は途切れるも、ボウリング修行で持ち前のリストがさらに強くなる意外な副産物もあった。この時期、仲間と早朝に楽しむ軟式の草野球が、唯一の野球との接点だ。やがてボウリングブームも下火になり、20歳を目前にした落合は、元秋田工野球部の部長・安藤晃のもとを訪ね、「私の人生は野球しかない。道を開いてください」と頭を下げる。東洋大の進学時にお膳立てした安藤が、次は中途半端に投げ出さずに「本気でやれるか」とただしたら、「今度は本気です」と落合は答えたという。
そうして、1973年11月1日。東芝府中のグラウンドでセレクションを受け、誰よりも白球を遠くに飛ばすバッティングを評価されて運命が開けるのだ。
<後編へ続く>