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「所持金はわずか5円だった」18歳落合博満、“失敗続き”の日々「練習はサボってばかり」高校野球のシゴキを嫌った男が25歳でプロになるまで 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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posted2024/10/09 11:00

「所持金はわずか5円だった」18歳落合博満、“失敗続き”の日々「練習はサボってばかり」高校野球のシゴキを嫌った男が25歳でプロになるまで<Number Web> photograph by KYODO

1978年ドラフト3位指名、25歳でロッテに入団した落合博満。18歳で東洋大を中退したあと、落合は何をしていたのか?

「練習はサボってばかり。たまに来ると思えば、他の部員はすでにグラウンドに集合しているのに、部室でひとり雑誌を見ているんです。覗いてみると、大リーガーのバッティング写真なんですね。『スゴイぞ。お前も見ろ』と言われても、ハテ? しばらくして突然部室を出て行くと、フリーバッティングを始めるんです。イメージトレーニングだったんですね。今にして思うと、あの頃から世界が違ってたんだな、と感じます」(週刊宝石1992年5月7・14日号)

 圧倒的な実力を持ちながら、先輩風を吹かすわけでもなく、イジメやシゴキを嫌い、ときに後輩にラーメンを奢ってやったこともあった。集団で動くタテ社会の厳しい昭和の体育会系において、我が道を行く落合の存在は異端だった。一方でその一匹狼のイメージとは裏腹に、のちに「週刊ベースボール」1981年3月9日号のカラーグラビア「私とふるさと秋田編」で、落合の母は「とにかく甘えんぼで」と、女4人男3人の7人兄弟の末っ子・博満の少年時代を回想している。実家で祖父が和菓子店を営み、父は食糧事務所勤務で多忙だったこともあり、博満少年の面倒はよく兄や姉が見たという。

「一番上のお姉さんとは14の年齢差。秋田工時代は二番目のお姉さんのアパートに同居。そして東芝府中に就職、東京に出てきてからは四番目のお姉さんが“お目付け役”」と紹介されるオレ流の意外な素顔。日常生活では神経質で、タンスの中も綺麗に整え、下着のたたみ方も気に入らないと自分でたたみ直すほどだ。なお、野球の師は、中学時代から落合の練習試合にも熱心に足を運び、家に帰れば新聞を丸めて上から放り、バッティング練習をさせた8つ違いの長兄だった。

「ポケットに五円しかなかった」

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 高校卒業を控えた落合は、東洋大野球部のセレクションでスタンドインを連発。あっさり合格してみせるも、上京してすぐ挫折する。練習中に左大腿部の肉離れや足首ねんざのアクシデントがあったが、それ以上に自分より野球の下手な先輩が偉そうにいばり散らす、大学野球の雰囲気に嫌気がさして早々に退部。高校を卒業直前の2月に合宿所に入るも、4月の入学式も待たずに荷物を置いたまま飛び出したという。野球部とともに、しばらく籍だけはあった大学も辞めてしまい、行くあてもなかった。

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